大学受験と風邪

美術予備校に通い始めたのは、高三の春休みからだったと思う。

美術系の学科の大学、及び専門学校に合格するには、通常実技試験を経なければならない。一定人生を左右する大学受験において、美術系の学科も例外なくコンペティティブで、志す者は、美術部のみならず、美術の実技試験に特化した予備校に通うことになる。

室内にはいくつかモチーフが設置されており、受験生がイーゼルを立て、黙々とデッサンをする。バケツにロープが垂らされ、斜め両脇に、ヨーロッパ産の炭酸水が置かれていたりする。モチーフが複数あることにより、受験生が「空間を表現できるか」を試されている。同一モチーフを多数で描くため、一定どの角度から見ても「絵になる」様に配置する意図もあっただろう。

10歳から油彩をやっていた私は、デザイン系に進む気はさらさら無く、デザインの授業の時は、一人で、昼間、浪人クラスが描いたであろうモチーフのデッサンや水彩を描いた。他の現役生は素直にアクリル絵の具で色彩構成をしているのに、だ。そんな私の所にも、先生方は足を運んで指導してくださったのだから有難い。頑固な生徒だなあと思われていたかも知れない。

余談だが、若年者程頑固で、また老化とともに頑固になって行くものだと思っている。

夏期講習で、ブリキのバケツの上に、タイヤ交換に使用する十字レンチが置かれ、床面には色の異なる折り紙が設置されたものをデッサンで描いた。

大まかに、「金属らしさを描けるか」と「色相の違いを鉛筆で表現できるか」を試される課題であった。形を取るのに大きな苦労は無く、かなり早い段階で完成に近づいた。時間があるので多少肉眼で見るより高コントラストにしようと、Hやら2Hやらの硬い鉛筆を寝かせて、黒を強くしたい箇所にゴリゴリ擦り付けた。

制限時間が終わると、「公評」と呼ばれる、一点一点の評価が行われる。通常の予備校であれば、点数は採点者と回答者しか知り得ないが、この「公評」は、自信の無い者にとっては「公開処刑」となる。

並んでいるデッサンたちを見て思った。「あ、多分俺のが一番いいな」と。勿論、地方大学の美術科を目指す現役生しかいない集合だったので、「その中では」と言う話だ。案の定、先生に褒められた。ばかりか、「お前、これ本番で出せたら合格するわ」と言われた。

夏の時点でそんなこと言われる現役生がいるだろうか。私は図に乗った。他の現役生からの羨望の眼差しも、益々私を調子に乗らせた。そのせいかはわからない。しかし、それから秋にかけて私のデッサンの出来は降下し、絵に描いたようなスランプに陥った。只、スランプに陥った要因はこれに限らない。

丁度その頃、一般大学を目指す高校の同級生たちも、高校の授業のみでは足りないと予備校に通う者もちらほら現れた。私は、高校の授業が終わったら、自宅とは反対方向へ向かう電車に乗り予備校に通った。

ある日、本来帰宅するなら私も居たであろう側のホームにクラスの女子が居た。向こうはこちらに満面の笑みで手を振った。勿論、お返しに手を振り返すわけだが、問題が起こった。

その一瞬で恋に落ちた。

今となってはなんて初な話かとは思うが、当時の私には重症だった。勉強の際も、デッサンを描いていても、彼女が、正確には私が作り出した彼女の幻想が、私を邪魔してくる訳である。

秋には高文連(高体連の文化部版)の都道府県大会がある。所謂野球のそれとは異なり、都道府県大会で選ばれた者は、翌年の全国大会に出場することになる。3年次、私の作品は、地方予選を勝ち抜き、都道府県大会での展示が決まった。大会が開かれたエリアを顧問と後輩と共に散策したり、参加者皆んなで周辺をスケッチしたりなど、それなりに楽しめた。

ただ一つ心に決めたことがあった。ここで描いたスケッチを彼女にプレゼントして告白をしようと。

大会から帰宅したその日だったと思う。当時携帯電話を持っていなかった私は、彼女の自宅に電話を掛けた。姉か妹らしき人が出たので、本人に代わってもらい、近くの公園に彼女を呼び出した。

私は大会での土産話をした後、そのスケッチを手渡した。彼女は少し戸惑ったようだったが、「ありがとう」と言ってくれた。また少し話したのち、私は意を決して、「好きです。付き合ってください。」と、過去に何万人、いや、きっと皆が一度は言ったことがあるかもしれない、使い過ぎて擦り切れまくったテンプレートを言い放った。

気まずい沈黙の後、「ごめん。好きな人が居るんだ。でも貴方はすごく良い人だと思う。」という、テンプレートが、嘘のないトーンで聞こえてきた。

私は彼女を家まで送り、駅に向かった。随分丁寧な演出家が居る様で、傘の無い私にの下に雨を降らせた。

雨に濡れた私は、翌日風邪を引いた。「これで良いんだ。これで大学受験に集中できる。」

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