異文化交流

2012年、私はオーストラリアに居た。

オーストラリアでのワーキングホリデーでは、農林水産業の何かしらを担い、実稼働日数が3ヶ月を超えた者に、2年目のビザが与えられる。「国の若者達がやりたがらない仕事をしたら、もう一年滞在していいよ」という制度だとザックリ理解している。

この若者たちは大抵、農家と働き手を繋ぐ人材派遣会社と安宿を兼ねた、バックパッカー、通称バッパーに泊まり、日々農作業に汗を流した。

農作物の種類は違えど、仕事は9割方収穫作業だ。派遣先の農家によっては当たり外れがあり、派遣先が違う者と情報交換を行い、各々の環境に一喜一憂した。地表近くに実のなる作物は、腰を曲げる必要があり、多くは痛み止めを飲み、腰痛を誤魔化しながら働いた。

英語の勉強の為に来たのだから、日本人とは話すまいと思っていたが、これが結構難しい。英語スキルの問題と、文化の問題、ごく一部によるアジア人蔑視の問題より、ヨーロッパグループとアジアグループに別れがちだった。

そんな中でも、出来るだけヨーロッパ人と話そうと試みた。中でもドイツ人の英語は比較的聞き取りやすかった。加えて、彼らの国民性は日本人と相性が良かった。

同じ農場で働き始めたユリヤはノリも良く、内庭のベンチや、職場のランチタイムに色々話した。自分が今までやってきた美術のことや、ドイツ語に興味があることなど。何となく、気持ちが通じ合った気がした。

その日、バッパー民の多くは、クラブに行く様子だった。田舎で唯一許された娯楽はクラブで飲んで踊ることくらいなのだ。夕飯を済ませた者達は、酒を飲みながら、クラブへ行く前の気分を上げた。

私もその一員だったが、酒に弱く、仮眠を取った。何分後かはわからない。ユリヤが私を叩き起こした。眠たかったが、ユリヤとクラブに行きたい気持ちが勝った。

クラブに着くと、いつも飲んでいたラムコークを引っ掛けて踊った。

どれくらい踊ったか覚えていない。衝動的にユリヤにキスをした。ベンチでの会話の続きと、ダンスの続きを唇と舌で行った。周りの友人らは目を疑ったかも知れないが、その動物的なコミュニケーションを止めることは出来なかった。

女心というのは良くわからない。ユリヤを私のベッドに誘導したのち、ハイコンテクストなコミュニケーションの続きを試みた。

先程までとは異なる応答があった。「貴方には辛いと思うけど、明日も朝早いから、今日はもう寝ましょう。」

合意形成に失敗した私は、彼女と文字通りに「だけ」寝た。

翌日、38℃はあろう高熱に見舞われた。きっちり病気だけもらって、インターカルチュアル・コミュニケーションは不発に終わった。

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