SNSを半分辞めてみた(「半分」としたのは、このブログの投稿は制限から除外したからだ)。
孤独を埋める為にソーシャルメディアに依存していたが、結局そこでも孤独を感じたからだと思う。子供時代は母に、以降は歳上の恋人達にそれを補完してもらっていたのかも知れない。
社会を形成している人間は所謂、群れで生きている種で、大袈裟かも知れないが孤独は死を意味する。働いてお金をもらって、食品を買えるのであれば十分であるかも知れないが、孤独に危機感を覚える様に設定された者が生き延びた結果、子孫である我々、特に日本人は孤独に敏感だと思う。だから、同調圧力に屈して苦しい思いをする反面、災害などの有事には不文律が守られるのだろう。
転職を繰り返し社会不適合で、一定年齢以降パートナーを作る能力や魅力も失い、病気で思うように自分自身もコントロールできない。
隣の芝生が青く見えるだけかも知れないが、みんなは、社会人としてもそこそこ活躍し、パートナーや子供を儲け、人生が充実している様に見える。運用を間違えるとソーシャルメディアは、自分を相対的に不幸にすることがわかってSNSを半分辞めてみたのだと思う。
自分一人で幸せでなければ、これまでの様に他者に依存して幸せなフリをしないといけない。私は経済的自立、精神的自立という当たり前のことができていないのだ。
SNSを離れてほんの数日だが心は落ち着いている。SNSの恐さはいくつかあり、先述したような「隣の芝生の羨望」、「自分の発信への批判」、「時間の浪費」などが思い当たる。
うつ病を発症してから体力も所謂メンタルも弱体化した。以前は他人からの批判をなんとか受け止めていたが、今は苦しい。老いるほど自分の考えに固執することは、理論からも実体験からも理解しているので、自分が年齢を重ねただけかも知れない。
正直自分がこれ以上成長や向上できると思わない。年齢的、あるいは病気から起因するものによりそんなエネルギーが無い。
変化、改善、成長、向上、進化は、過去或いは現在の自分を否定しないと為し得ない。大人になると本質的に、他者は自分を肯定してくれない。言い換えると、自分が自分自身を肯定しないと誰も肯定してくれない。異論は認める。
それなのに自分を否定して自分を変えることなど苦しくてできない。臆病とか子供とか言われても構わない。少なくとも私は、そうしないと自分を保てないと思っている。
これは、表現者が昔から葛藤してきた命題と似ている。
「表現者は何処まで鑑賞者の目を意識すべきか」
「自分の表現を貫くべきか、ある程度売れるものを作るべきか」
これらの問いに対する私の答えは「どちらでもない」だ(しかし後で覆す)。
真実はいつも凡庸だ。中庸と言い換えても良い。
自分を殺して表現することに何の意味もない。
反面、その表現が全く伝わらなければそれはそれで無用だ。
理想的には、自分の表現を他人に伝わるように料理する。誠に凡庸な答えだ。
他人がに伝わるように、自身の表現にある種の客観性や批評性を持たせる訳だが、厳密に言うと、「自分が思う」客観性や批評性な訳で、本質的には誠に主観的なものである。
その意味に於いて、私は「表現者は鑑賞者の目を全く気にしなくて良い」し、「経済的リターンを全く無視して表現するべき」だと思う。
私は自分が自分である為に、他人に左右されない為に、ソーシャルメディアを半分降りてみたのだと思う。
繰り返すが、異論は認めるのである。

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