「子供叱るな 来た道だもの 年寄り笑うな ゆく道だもの」の後半をしばしば思う。同居している親父が同じく同居している祖母をよく疎ましく揶揄しているからだ。
簡単に言うと祖母の一挙手一投足が気に食わないらしい。
やれ電気がつけっぱなしだとか、やれテレビがつけっぱなしだとか、好き嫌いが多いだとか、寒がりだとか、運動しないだとか。文字通り一挙手一投足にケチをつけている。そんなに観察していて、疎ましいどころか一周回って好きじゃないかとさえ思う。
私からすれば「自分もゆく道だろう」と言う感想になる。まあ、父の祖母に関する愚痴を受け、私自身も父に対する愚痴をここに垂れ流しているのだから、全く他人のことは言えないのかも知れない。
親父は、祖父が生きていた頃は祖父の愚痴しか言わなかった。
「そんな詰まらないことに固執しないでもっと有意義なことを行えよ」と否定的にも見れるが、「よくもまあそんなことに怒るエネルギーがあるもんだ、俺にはそんな元気がない」とある種肯定的に見れなくもない。
目の上のたんこぶ的に老害が居るとイライラすることは理解できなくもないが、自分自身、老害の張本人である可能性を考慮しなくてはならない。まだ三十代の自分とて若者の中に入ればそうなり得える。
別に、年配者は若者に引け目を感じて生きろと言っている訳ではない。
一般論的に「老害は早く引退して優秀な若者に席を譲るべき」という意見に賛同はできるが、「さて、あなたはどうやら老害の様です、そろそろ引退しませんか」と言われたとしたら、私は素直に従う自信がない。
私がうつ病になった要因の1%くらいには「どうやって人に迷惑を掛けずに死んでいこうか」と考えたことが挙げられる(言葉にすると微妙に違う気もするんだけど)。コスパや地球のことを考えると今すぐ切腹したほうが良い。醜く歳を取っていくくらいならどこかで美しく死にたい、的な。
他人に迷惑を掛けないことや、美しいことは大事なことかも知れないが、時としてその考えは、ブレーキを握りながら自転車のペダルを漕ぐような、絶望的な苦しさがある。
若者に席を譲った老人はどうやってその自尊心を保つんだろう。若者が活躍する姿を見て微笑みながら、いつか来る死を待てるんだろうか。
先日、田原総一郎のモーニングルーティンを描いた動画を観た。彼の勤勉さや、(あの年齢における)若さには尊敬するが、昨今の討論における老害感を禁じ得ない。
でも、老害とわかっていながらか、そうでないと信じてか、生涯現役を貫く姿は寧ろ格好良かった。
若者からも学びながら、しかし、老害と言われようとも最後まで自分の信念で命を燃やすことはやめない、くらいが凡庸だが格好良い気もする。

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