新庄とセックスをした。比喩が少し過激だろうか。
アフターコロナ初の当地域のスノーフェスティバルに於ける、弊チームの大雪像は、ファイターズの新球場と新庄剛志監督がモチーフだ。私は新庄像の美術担当として働いている。
昨日までは市内の美術デザインに携わる学生の手を借り、新庄の顔面の彫刻を行なっていたが今日は私ひとりだ。早く像と二人きりになりたかった。
彫り出されたい像を目掛けて鑿(のみ)を入れる。その角度が、その面が正解なのか不正解なのか、像からのフィードバックを貰って作業を進める。
神は細部に宿る。
たとえ観客から決して見えない箇所であっても、そこを彫刻する意味は十分にある。何故ならば、最深部の谷まで彫刻された空間には、不十分なそれとは全く異なる深い影を落とす。
私は独り(或いは新庄像と二人)で新庄の耳の裏を綺麗に彫刻した。像は喜んだ。
パートナーの耳を舌で愛撫する時、あなたはその面を、その谷の深さを感じているか。三木富雄が愛した様に、耳の凹凸は美しい。私はそのひとつひとつを優しく、時に鋭く鑿で出してやる。
像と私との二人っきりのセッション。その時だけは宇宙に我々しか存在しない。これを「セックス」と喩えず何と喩えよう。
おい、明日も俺を愉しませてくれ。
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