∬ Takuma Tsuchidfa ∬

  • 今年の秋の流行色

    太平洋高気圧が手を抜き始めたか、台風を日本に招く様になった。残暑は続くが、私は小さい秋を感じ始めている。 食欲の秋。スポーツの秋。芸術の秋。 何故芸術の秋か。それは、秋が我々をアンビバレントな感情にさせるからだ。 夏が終わっちゃうな。寒くなるの嫌だな。でも、秋の味覚は好きだな。お気に入りのコートやマフラーを身に付けるの楽しみだな。そんな、相反する(アンビバレントな)感情が、創造性を生むらしい。 私は、10歳から高校三年まで絵画教室に通った。高校生の時先生に言われた、「恋愛した方が良い絵描けるよ」を思い出す。そんなにモテないオーラを放っていたか。 成る程。恋愛、特に片思いをしている時(又は、両想いに確信が持てない時)、アンビバレントな感情になる。相手の言動の裏を読み、一喜一憂、希望と絶望の狭間を右往左往する訳だ。 小六の時登下校を共にした友人は、マーガレットの花占いを毎度の様に行った。「…好き、嫌い、好き、嫌い。」占い結果に納得が行かないと、彼はもう一本引っこ抜いた。今思えば、雑草な訳は無く、その家の大事なガーデニングの一部だったに違いない。 彼女と進学を同時に絶たれて項垂れていた頃、ある人は、「アーティストとしては、そういう時の方が良い作品作れるよ」と私にアドバイスした。当時は何の救いにもならなかったが、一つの真理だ。 某世界的芸術家も、病んだ精神で良作を生むアーティストを、生かさず殺さず、絶妙なメンタルケアを行うのがキュレーターの仕事だと言っていた。 考えてみると、世の中アンビバレンスに溢れているではないか。長所は短所に、短所は長所に。無邪気で可愛い所が好きだったが、今はそこが嫌い。 白黒つけるな。全ての物事は、飽く迄グレーのグラデーションでしかない。 グレーでもない、ベージュでもない。今年の秋はそれくらいの色の小物を身に付けるのが良いかもしれない。

    今年の秋の流行色
  • 異文化交流

    2012年、私はオーストラリアに居た。 オーストラリアでのワーキングホリデーでは、農林水産業の何かしらを担い、実稼働日数が3ヶ月を超えた者に、2年目のビザが与えられる。「国の若者達がやりたがらない仕事をしたら、もう一年滞在していいよ」という制度だとザックリ理解している。 この若者たちは大抵、農家と働き手を繋ぐ人材派遣会社と安宿を兼ねた、バックパッカー、通称バッパーに泊まり、日々農作業に汗を流した。 農作物の種類は違えど、仕事は9割方収穫作業だ。派遣先の農家によっては当たり外れがあり、派遣先が違う者と情報交換を行い、各々の環境に一喜一憂した。地表近くに実のなる作物は、腰を曲げる必要があり、多くは痛み止めを飲み、腰痛を誤魔化しながら働いた。 英語の勉強の為に来たのだから、日本人とは話すまいと思っていたが、これが結構難しい。英語スキルの問題と、文化の問題、ごく一部によるアジア人蔑視の問題より、ヨーロッパグループとアジアグループに別れがちだった。 そんな中でも、出来るだけヨーロッパ人と話そうと試みた。中でもドイツ人の英語は比較的聞き取りやすかった。加えて、彼らの国民性は日本人と相性が良かった。 同じ農場で働き始めたユリヤはノリも良く、内庭のベンチや、職場のランチタイムに色々話した。自分が今までやってきた美術のことや、ドイツ語に興味があることなど。何となく、気持ちが通じ合った気がした。 その日、バッパー民の多くは、クラブに行く様子だった。田舎で唯一許された娯楽はクラブで飲んで踊ることくらいなのだ。夕飯を済ませた者達は、酒を飲みながら、クラブへ行く前の気分を上げた。 私もその一員だったが、酒に弱く、仮眠を取った。何分後かはわからない。ユリヤが私を叩き起こした。眠たかったが、ユリヤとクラブに行きたい気持ちが勝った。 クラブに着くと、いつも飲んでいたラムコークを引っ掛けて踊った。 どれくらい踊ったか覚えていない。衝動的にユリヤにキスをした。ベンチでの会話の続きと、ダンスの続きを唇と舌で行った。周りの友人らは目を疑ったかも知れないが、その動物的なコミュニケーションを止めることは出来なかった。 女心というのは良くわからない。ユリヤを私のベッドに誘導したのち、ハイコンテクストなコミュニケーションの続きを試みた。 先程までとは異なる応答があった。「貴方には辛いと思うけど、明日も朝早いから、今日はもう寝ましょう。」 合意形成に失敗した私は、彼女と文字通りに「だけ」寝た。 翌日、38℃はあろう高熱に見舞われた。きっちり病気だけもらって、インターカルチュアル・コミュニケーションは不発に終わった。

    異文化交流
  • 祖父の天敵

    父の評価だと、叔母は、死んだ祖父を上回る頑固者らしい。 余談だが、父は、祖父の死後、実は祖父より祖母の方が頑固だったと言い始めた。周囲を頑固者扱いをする張本人の頑固性は、今後私が公平に判断する予定だ。 叔母は、隣町の進学校に行きたかったが、祖父に「地元の高校で良い」と希望進路を妨げられた。叔母は、以後一切の勉強を断ち、成績を急降下させる暴挙に出た。流石の祖父も、志望校への進学を許可せざるを得なかった。 「頑固」という一見ネガティブな性質も、視点を変えれば「物事を強引に動かす力」とういうポジティブな見え方をすることもある。 ある朝、私は、一階から聞こえる「揉め事」で目が覚めた。 祖父が、レンジで温めた牛乳を床にばら撒いたらしかった。牛乳のみならず、マグカップも床に横たわっていた。祖父の様子は明らかにおかしく、言葉も覚束ない。父が救急車を提案するも、祖父は断固拒否だ。日課の血圧の薬を飲んで、様子が落ち着いたのでその日はそれで終わった。 無理やり病院に連れて行けば良いだろうと思うかも知れない。甘い。あなたは本当の頑固を知らない。 ある時、肩関節に異変を感じた祖父は、ダンベルで三角筋を鍛えるトレーニングを始めた。関節に異変を感じた時は、安静が鉄則だと素人でもわかる。父と私で、止めるよう説得するが、案の定聞く耳を持たない。私たちは交渉を諦めた。祖父は、その独自の診断と治療法で肩関節を完璧に破壊し、手術入院が決まった。 そういう男に、凡人の交渉術は通用しない。 マグカップ事件の翌日、父は一枚上手の交渉人、叔母を連れてきた。叔母は、前日病院行きを断固拒否した強者を、秒で論破しタクシーに詰め込んだ。

    祖父の天敵
  • せっくす

    小5の時、友人らがやけにニヤニヤしながら、よくわからない単語を発してはしゃいでいた。私にはその面白さが一切わからなかった。面白さはよくわからないが、余りにも連呼するので、その単語の響きだけは脳裏に焼きついた。 それは、「せっくす」というものらしかった。 あの時は何故母親と2人っきりだったのだろう。妹は、習い事か、友達の家にでも遊びに行っていたのだろうか。ふと、その単語を思い出した私は、辞書を引くくらいの気持ちで、母親に尋ねた。 「せっくす」とは何かを。 今の時代、息子にこの直球を投げられた母親は、どんなボールを返すのだろう。そもそも息子もググって自己解決だろうか。 「お父さんに聞きなさい」 母親は返球を放棄した。 単語の意味はわからないが、生まれて初めて、母にしてはいけない質問をしたことだけは悟った。

    せっくす
  • 寿司屋の修行

    有難いことにブログの感想やイイねを頂戴している。 この文体からか、エピソードからか、私の不器用さが感じられるそうだ。エピソードはそんな感じだが、文体は一生懸命かっこつけているのだ。が、どうしても本質が滲み出ているのか、読者の観察眼が優れているのか、そういった印象を与える様だ。 そう、淡々と、月日、年月が流れる様になって、私自身、忘れかけていたが、私は不器用なタイプの人間だ。いや、正確に言うと、「不器用なタイプと言われる」人間だ。完全に自覚している訳ではなく、そう言われるから、そうなんだろうと思っている。 「天然」と表現されることもあるが、ほぼ同義で使用されていると思って相違ないだろう。 自分の不器用エピソードを語ろうと思うが、的を外しているかも知れない。何せ、不器用なのだから。 思い出すだけで嫌になるが、何の仕事をしても向いていなかった。 一時、回転寿司で働いていたのだが、なかなか上手く行かなかった。メニューと、それに対応する皿も覚えられない。初日からおばちゃんに怒られながら仕事をした。私はメニュー表を持ち帰り、ネタの絵とそれに対応する皿の色を色鉛筆で塗り分けた。 そのおばちゃんは必要以上に怒る人だったが、周りの大人(自分も立派な大人だったが)はそれに気付いても、あまり助けてはくれなかった。 ホールでもできは酷かった。忙しい時にうっかりならわかるが、客が1人もいない時間帯にグラスを一度に複数割ったりして、店長を唖然とさせた。 キッチンもホールも大してできないのに、何故か兄さんたちに混じって、握りをやる様指示された。注文は口頭でも、紙でもやってくる。カンパチ、ブリ、ハマチの見分けもつかない私は、注文にミスがない様、丁寧に作業して、順調に注文を積滞させた。益々私は緊張し、最終的にホタテを炙るのに、プラスチックの皿ごと炙った。 店長は以後も機会を見て、握りをやる様に私に指示したが、丁重にお断りした。 ひとつ歳下の女の子のスタッフにも、仕事が出来ず相当嫌われた。今思えば、月のバイオリズムに機嫌が大きく左右されるタイプで、彼女の調子が悪い日にヘマをやると、殺されるのではないかと思った。この手の女子の地雷のど真ん中を踏むことにおいて、私の右に出る者は居ない。 仕事ができないくせに、無駄に教育大学卒のスペックを持つ私を揶揄してだろう、私は「センセイ」というあだ名で呼ばれた。 気持ちはわからないでもない。今の会社に居るひと回り近く歳下の男の子に対し、周りの社員は、きっと同種の評価をしている。お世辞にも仕事が出来るとは言えない、いかにもボンボンといった感じで、質問も的を射ない。お勉強はできそうで、いつも昼休み読書をしている。 そんな彼を、私は他人事とは思えない。私自身、認めるのが嫌だが、きっと私以上に、母親に過保護に育てられたに違いない。もし彼が私と同じ人種なら、時間は掛かるが、少しずつ周囲に認められるに違いない。一度、昼ご飯を一緒に食べ、その素直さに好感を持った。 回転寿司屋では滑稽にも、何かやらかせば、「センセイ!」と怒られた。怒られるのは嫌だったが、辞めるわけにはいかなかった。ワーキングホリデーで海外に行く予定だった私は、飲食業の実務的な経験と、向こうで使う履歴書に、「rotating sushi bar」の経歴があることを嘘なく書きたかった。 縁もゆかりもない海外で働くには、日本食レストランで働くのが手っ取り早かった。その為、日本の回転寿司での勤務経験は有利に働くと考えたのだ。 補足になるが、私は当時、まだアーティスト症候群の呪縛を免れていない。「芸大がダメなら海外だ」という素人が描いたサクセスストーリーの主人公を務める必要があった。 以上の理由より、幾ら向いていなかろうが、怒られようが、回転寿司屋を辞めるわけにはいかなかったのだ。 相変わらずドジでノロマだったが、いつしか仕事には慣れた。 半年を過ぎた頃、札幌雪まつりの模型制作、及び実制作に携わる予定だった為、退職を申し出た。 私を一番怒ったおばさんは、何故か私の退職を惜しんだ。 最後まで店に馴染めなかった私は、喜んでその店を去った。 今、もうその店はない。みんなどうしているだろう。

    寿司屋の修行
  • 利己と利他

    他人の為に生きると幸せになれる。 これは、社会規範や倫理を民衆に守らせる為に謳われているのではなく、オキシトシンという脳内ホルモンの効果を根拠として謳われているらしい。 若い時はともすると利己的になりがちだ。自身の生命維持が最優先なのだから、パンが一つしかない時、救命の浮き輪が一つしかない時、「それを他者に譲らない権利」を認めて良いと思う。譲れるのはきっと相手が肉親の時に限られるかも知れない。中には自分の取り分をゼロにして、他人に譲るも者もいるかも知れない。そういう人は素晴らしい。死んでも天国か極楽浄土に行けるに違いない。自分は「他人に譲る」と自信を持って言えない。 自分も人の親に成れば、価値観のコペルニクス的転回が起こるのかも知れないが、正直、今は自分の為に生きている。 それではオキシトシンが出ないからか、その他の要因かわからないが、確かに虚しい時もある。 会社に行き、言われたことをやり、毎月一定額が支給される。支給額は生活を豊かにするには不十分だが、生命を維持するには十分だ。一時、貧しい国の子供の教育費を寄付していたことがあった。恐らく自分の幸せの為に、という不純な動機で。結局、家計を圧迫する月もあり辞めた。野良猫に餌をやるくらい偽善的なことをしてしまったかも知れない。その子も、その慈善団体もそんなことでは傷つかないのに、何となく後ろめたい気持ちになった。 ある時、恋人が欲しくてマッチングアプリを弄っていた。 一昔前の出会い系サイトと異なり、一定本気で出会いを探している者も少なくない。マッチングアプリで恋人を見つけたとか、結婚したとかいう知り合いもちらほら居る。アメリカではオンラインの出会いは全体の3分の1を占め、幸福度はその他の出会いより高いというから、一切バカにできない。オフラインから出会って結婚しても、文句を垂れながら結婚生活を続ける者も居れば、オンライン経由で知り合い、幸せそうなカップルも居る。勿論当人同士がハッピーであれば、私は、カップルの出会い方にとやかく言うつもりはない。 私は少し歳の離れた20代の女性とやり取りしていた。一度ランチをしようという話になり、待ち合わせをした。待ち合わせ場所に行くと、SNOWで加工されまくったプロフィール写真とは似ても似つかない女性に声を掛けられた。 思っていた顔と違ったので、私は一気に消化試合モードになった。とは言え、悪い子ではなかった。色々話を聞いたら、持病があるらしかった。私の母親も病気が見つかったばかりで、他人事にするのはやや困難だった。 その後も連絡を取り合ったが、高確率で彼女は体調が頗る悪そうだった。病気の治療費や、薬代でかなり家計は苦しそうだった。 彼女から、私にお金を貸して欲しいと依頼があった。演技なら大したものだが、彼女の様子から、体調が悪いのは間違いなかった。嘘でも真でも、困っているなら助けようと思い、金を貸した。当然返金は期待していない。 忘れた頃に、またお金を貸して貰えないかと依頼があった。気づけば私の家計もかなり圧迫していた。私は最後の手切れ金を振り込み、彼女のラインをブロックした。 一時、彼女の生活が楽になったならそれで良い。 普通はこれをどう思うのだろう。私思いの友人なら、「変な女だったら、すぐ縁切りなよ!」とアドバイスをしてくるだろうか。或いは、「自分の問題と他人の問題を分離できていない」と、アドラー心理学を以って諭されるだろうか。 どこの馬の骨かわからないままで終わったが、目の前の人が自分より飢えているのが明らかだったので、自分のパンを渡したし、自分の方が泳ぎが得意なのが明らかだったので、浮き輪を譲った。 でも彼女は次のパンを稼ぐ余力も無かった。私は、結果自分のパンが無くなるのが嫌で、以降のパンを彼女に与えなかった。彼女は最悪死んでいるかも知れないし、今も頑張って生きているかも知れない。 以上より、私は利己的な人間であるし、他者の利己的な言動を否定しない。

  • サピエンスのオスとしての最適解を考える

    ※専門外の生物に触れています。訂正すべき箇所、誤解を与える様な表現がございましたら、ご指摘くださいませ。より良いエッセイになるのでしたら、是非伺いたいです。※ ※私が好き勝手乱読した知識から、好き勝手語っています。一つの価値観としてお楽しみください。※ 生物にはオスとメスの有性生殖を行うものが多数ある。 自分のコピーを作るだけにすれば低コストで済むが、種の保存の観点からは、多様性に欠け、環境如何では絶滅のリスクを高める。 両性生殖を行う種の保存の為には、最低一度は異性と結ばれなければならない。が、原理的に無数に種づけできるオスと、生涯の出産回数が限定的な(特に哺乳類の)メスの、子孫繁栄の最適解は、絶妙に異なる。よって、私は昨今の有名人の不倫騒動について、賛成意見も反対意見も持ち合わせていない。 一種のハツカネズミは、一度番いを形成すると、その異性にしか愛着を示さないらしい。我々からしてみると、パートナーと離婚、又は死別した場合、次に誰も愛せないのだから、そのメリットがよくわからない。調べればわかることだが、専門的な知見もなければ、それを載せるべき場所ではないので控える。最低限、そのハツカネズミの種の保存戦略として、それが何かしらの理由で有効だった、ということだけは、恐らく言って差し支えはないだろう。 該当のハツカネズミとは逆側の戦略を選んだものたちのは、一夫多妻型、更に逆サイドの極みに行くと、乱婚型となる。 一夫多妻、つまりボスザルが居て、周りはメスだらけのハーレムを形成する。ボスザルに成れなかったものは独り寂しく死んでいくか、然もなくば、ハーレムのメスをレイプして子孫を残す。若いオスにボスの座を奪われたボスザルは、役目を終えひっそりと亡くなる。ハーレムのメスや子供を食わせ、若いオスにいつ下克上されるかわからない精神状態は計り知れない。 乱婚(乱行)型の者たちは、多数の異性と交わる。メスは、遺伝的父親を特定こそできないが、その父親を含む、群のオスたちと子育てをする。つまり、誰の子かはわからないが、この中の誰かの子ではあるわけだから、この村みんなで育てようという戦略だ。なんとも理想郷に聞こえるが、間違いなく自分の遺伝子をもつ個体だけに投資をしたい現代社会人にはそぐわないシステムかも知れない。 恋が人間だけのものかわからない。「動物たちは本能に従い行動するが、人間には理性がある」と言いたいところだが、幼児の初恋も性欲に起因すると言うから、特段、他の動物と大差がない可能性もある。 極論、個体の生命維持だけを考えれば、子供を儲けることは負債でしかない。その理性を麻痺させてパートナーを作るという「過ち」を促進するのが「恋」なのだと、ある科学者は語る。 老化と共に、その「麻痺装置」も機能しにくくなるらしい。 私はこのまま理性を保ち、自分だけに投資を行い死んでいくかも知れない。或いは、理性的に「理性の麻痺機能の作動」を演じ、時折その「過ち」を嗜むのかも知れない。 でも本当は、「盲目」になるのが一番幸せな気がする。

    サピエンスのオスとしての最適解を考える
  • 祖父と時計

    祖父が今年、享年93歳で亡くなった。 国内でのコロナウイルスの感染者は居たが、大きく騒がれる一歩手前で、葬儀はごく一般的な形式で執り行われた。 親父の三人兄弟だが、叔父、叔母には子供はなく、私は初孫だった。妹がほぼ年子で産まれたので、少なくともそれまでは、祖父母、曽祖父母の寵愛を独占したに違いない。 地方で農家をしていた祖父は、週に一回、日没前まで農作業をしてから、両親と私の住む札幌のマンションまで車を走らせた。孫の私を愛でて、睡眠をとったのち、早朝車で畑に戻り、仕事をした。 私自身、子も、ましてや孫も居ないので実感を持つことは不可能だが、エピソードを聞く限り、目に入れても痛くない存在だったのだろう。3年前産まれた妹の息子に、寡黙な父が、見たこともないくらい鼻の下を伸ばしているのを見ると、自身の子供とはまた違う可愛さがあるのだろうと思う。 祖父は毎度、「とうまん」と呼ばれる白あんの饅頭を買ってきた。私は、舌まで「甘やかされ」、祖父に懐いた。 小学6年に上がる年、父は郊外に家を建てて、祖父母、両親、私、妹の6人での生活が始まった。 正確には、曽祖母、叔母を含めた8人の筈だった。80年超、住み慣れた土地を離れたく無かったのか、曽祖母は、我々の引越しの直前に息を引き取った。同じく同居する筈だった独身の叔母は、やはり「独りが気楽」と早々に、このやたらデカイ戸建を出た。曽祖母との思い出は殆どないが、居間の奥の部屋に通じる引き戸の閉めが甘いと、「寒い」と注意を受けた。 夫の両親との同居は何かと苦労が多いようだ。息子の視点からもよく見えた。もう物心はとうに付いていたので、祖父が如何に頑固かよくわかった。世代的な要因もあるだろうし、当時珍しかった一人っ子も起因していたかも知れない。 職業柄も、自分は社長で、他は従業員。控えめに言っても、話し合いのできない人だった。 父は兄弟の中でも、特に祖父と馬が合わず、家の中は賑やかで、子供ながらに色々嫌な思いもした。両親の面倒を見ようと、祖父母に同居を申し出た父は素晴らしかったが、ソリの合わない者と穏やかに過ごすスキルは無かった様だ。 農家で鍛えた健康な体と、読書家の脳を備えた祖父は最後までボケることはなかった。中学時代、腕立て伏せをしては祖父に腕相撲を挑んだが、終ぞ、その強靭な手首を台に押し付けることは出来なかった。 祖父は、80代になると益々、頑固で我儘になった。 世の中には老害という言葉がある。好意的に解釈すると、心身が衰えた者は、自分の弱った心身をいち早く「快」の状態にもって行く為に、怒りで周囲をコントロールするのかも知れない。フェアな手段で、周囲と交渉/合意を図る、社会性も身体的/精神的余裕も、もうないのかも知れない。 祖父はエネルギーこそあるので、よく祖母に対する怒号が飛んだ。当時、大学院進学を諦め、ふらふらしていた私は、家に居る時間も多く、よくそれを聞かされた。流石に限度を超えていると思った私は、自身の生涯の伴侶をもう少し大切にする様嗜める旨の手紙を書いて渡した。祖父は、祖母と並び、老眼鏡でクリクリになった目でそれを音読していた。その手紙は、祖父の心を打ったのか、或いは逆撫でしたのかわからない。只、以前より怒号が落ち着いた気がした。 祖父は、私が会社員をしてからは、仕事のことを質問し、それが安定してからは、「誰か良い人は居ないのか」という「余計なお世話」を焼いてくれた。それが愛情なのはわかるので、嫌々ながらも返事の様なものはした。当時付き合っていた彼女は東京におり、月に一度東京に行く為に、私のなけなしのリソースは割かれた。いつもの様に東京に行く前日、祖父は「早く連れて来い」と顔ではなく、背中をこちらに向けて言い放った。残念ながら、その人を実家に呼ぶことは無かった。 昨年、秋に妹と甥が、追って冬に義理の弟が、こちらへの移住を決めて、実家に帰ってきた。8人で住む筈だった家には、曽祖母も叔母も、私も居なくなっていたので、彼らは綺麗にハマった。 孫娘夫婦と曽孫を数ヶ月愛でたのち、祖父は安心したかの様に他界した。 祖父はその日、危篤状態になりかけるも持ち直した。そこにいた者たちに筆談で「遅」を書き、「もう遅いから、早く帰れ」と促した。その晩、容体は再び悪化し、そのまま逝った。 父から「自宅待機」を命じられていた私は、逝く直前に会えていない。 昨年夏に見舞いに行った際、祖父は私の時計を褒めた。その、祖父が私に大学入学祝いで贈ってくれた腕時計は、当時あまり似合わなかったが、スーツを着る様になった近年は重宝している。 祖父は、時計を贈る人らしかった。嫁に来た母に、金婚式を迎えた際祖母に。 時計は、「あなたの貴重な時間を私と共有してください」という意味で贈られるそうだが、昭和3年生まれの不器用な男が、そんな粋なメッセージを込めたとは思えない。 でも、私はこの時計を結構気に入っている。

    祖父と時計
  • 希望と絶望

    大学院浪人1年目は、兎に角時間に追われていた。試験までに120%の準備をしたいというのはもちろんだが、卒業制作の実質的な時間切れは、時間にルーズだった私にはかなり有効な劇薬となった。 今や人より早く待ち合わせに着くのが常だが、もしかしたら、まだ薬が効き続けているのかも知れない。 浪人を許された私は、研究室の使用を継続させてもらえることになった。勿論、一定の授業料を支払ってだ。 今思えば無茶以外の何者でもないが、始発で大学に行き、終電で帰る生活が続いた。常にある焦燥感や、彫刻細部の造形の難しさから来るイライラで、全くの無煙、失礼、無縁だったタバコに手を出した。いつしか私の体重は47kg、体脂肪7%の、彫刻制作に取り憑かれたゾンビになっていた。 ゾンビのせいで、後輩たちはのびのび制作できなかったに違いない。ごめんね。 作品を納期に合わせて完成させることには慣れたが、焦燥感が無くなることは一切なかった。特に冬に入ってからは余裕がなかった。当時付き合っていた彼女との日課の電話を断った。 入試に持っていく作品自体は、当時の実力の全てを投じたので不満はなかった。 提出作品は、卒業制作に比べれば小柄だが、一人では持ち運べない。学内でトラックから下ろされた後は、手伝いの大学院生らしき人に手伝ってもらう。 二度目とはいえ、当然緊張している。 院生に運搬の補助を依頼する際、極度の緊張から、その台詞を噛み倒した。それほど滑稽だったのだろう。その院生は笑いを堪え切れず吹き出した。大学院入試という真面目なシーンで、これから試験を受ける、ある種もてなすべき相手のミスを笑うべきではない。それくらいの常識はある者に見えた。 それを凌駕する程滑稽だったのか、或いは、「笑ってはいけない」という状況が、笑いを増幅させるのだろうか。某お笑い番組のコンセプトの様に。 私は普通に腹が立った。少し遅れて、心の僅かな傷に気がついた。 入試の内容は、作品提出、デッサン、面接の3点だ。1年かけ前年の反省点を潰していった。デッサンでは前年同様、入学後制作したいもののイメージデッサンが求められた。この年も同じなのはわかっていたので、予め、小さなスケッチブックに書いていたデッサンを拡大して出力した。 残るは面接だけだった。 学部の教授がそうであった様に、大理石を扱う先生の研究室に入りたかった。提出作品はポリエステル樹脂で型取った人物像。大理石風の表面処理を施していた。 受験生1人ずつ面接をしていく為、待ち時間は異常に長かったが、遂に私が呼ばれた。 提出作品の解説と入学後の展望を説明した。 大理石「風」に作られた像を見て、師としたかった教授が一言、「これ大理石じゃだめなの?」 「…ですよね…。」と苦笑いをしながら返事をした。 「次!」の声と同時に、私の面接は秒で終わった。入試の結果は言うまでもない。 この年私は、合格以外に、3年付き合った彼女を失った。今思えば、入試の結果まで、別れを告げるのを待っていてくれたのは、最後の優しさだった。 提出作品に名付けたタイトルは「希望と絶望」だった。私に残されたのは後者だけだった。

    希望と絶望
  • 痘痕のヴィーナス

    自分の才能を過大評価した私は、いや、母の甘やかしを享受していた私は、就職ではなく、大学院への進学を許可された。大学側は許可した訳ではないので、入試を突破する必要がある。同じ大学の院に進むのであれば、ほぼエスカレーター式に進学できたが、無謀にも天下の芸大を志した。 当時の私の作風は、兎に角ダイナミック。3メートル級の巨大像を、卒業制作として作ることに決めた。 我ながら良い作品ができたと思ってい「た」。 粘土で造られた像はそのままでは、作品として形を維持できない。その粘土を窯で焼くか、別の素材で置き換えるかの二択だ。一般的には石膏に置き換えられる。私も例に漏れず、その技法を選択した。 門外漢からすると、ブロンズ像の方が見慣れているかもしれないが、あれは公共事業で設置されているからその予算があるわけで、一作家、まして学生が賄える予算の範疇を超えることになる。 粘土を石膏に置き換える工程を総称し、「石膏取り」と呼ぶ。工程の詳細の説明は、本題とずれるので割愛するが、出来た像のネガを石膏で取り、そのネガを基に、ポジも石膏で「プリントする」のだ(フィルム写真を知らない世代の読者へ、伝われ!)。 そう、わたしの卒業制作は順調なはずだっ「た」。 石膏取りの段階に入ると、私の制作の時間配分に、大きな誤算があったことが明らかになって来た。通常の作品より高さが2倍近くある私の作品は、どの工程も2倍時間を奪われた。高さが倍なだけなので、3次元作品である故、もっと手数を奪われたかも知れない。 粘土の造形も、石膏取りも順調に遅れた。 最終的に、「ネガ型」を割り、中の「プリント」された像を取り出す。作者の意向にもよるが、大抵着色されて完成となる。 教授陣へ発表を行う前日には、「ネガ」を取り壊すだけになっていた。だが、「間に合うかも知れない」という淡い期待は直ぐに失せた。 「ネガ」も「ポジ」も石膏の場合特に、型同士が癒着しやすいため、「プリント」面に、分離の膜を石鹸で作る。その濃度か、厚みが足りなかったらしい。割り出し作業は難航し、「ヴィーナス」と名付けられる予定だったその像は、痘痕のような肌を晒し始めた。 デッドラインと残りの作業時間の計算が不能になった私は、もう助けも呼べなくなっていた。気づけば見かねた教授に指示されたらしい後輩たちが、割り出しを手伝っていた。 発表までに完成しなかった。 本当は大学院受験も、まして卒業も出来る資格は無い筈だった。結果から言うと、成績を付けるのは自分の研究室の教授であり、彼の情けにより卒業に至った。 明らかに未完の「痘痕のヴィーナス」の発表を教授陣、及び先輩、後輩、同級生に対して行うという「公開処刑」を終えた私は、 無事にその年の受験に失敗した。

    痘痕のヴィーナス