∬ Takuma Tsuchidfa ∬

  • Hope or Despair

    FRP, acrylic paint, Japanese paper 210*65*70 cm 2008

    Hope or Despair
  • Sound of Bubble

    Snow Collaboration with Nobuo Itamoto, Kotaro Takahashi 3*3*3 m 2005 International Snow Sculpting Competition Japan Cup in Nayoro

    Sound of Bubble
  • Light Sleep

    Snow, Collaboration with Seino Yoshihiko, Yuki Dote 3*3*3 m 2009 International Snow Sculpting Competition Japan Cup in Nayoro

    Light Sleep
  • No regrets no hope but ordinary choices

    Our lives are sculpted by the decisions we’ve made in the past. Our diets, vices, protective measures, marriages, offspring, and occupations all shape who we are. Do I feel content with the person I am today? Are my ambitions too high-reaching? If given the chance to revisit yesteryear, would I make the same choices again?…

    No regrets no hope but ordinary choices
  • 氷点下の凹凸紀行

    新庄とセックスをした。比喩が少し過激だろうか。 アフターコロナ初の当地域のスノーフェスティバルに於ける、弊チームの大雪像は、ファイターズの新球場と新庄剛志監督がモチーフだ。私は新庄像の美術担当として働いている。 昨日までは市内の美術デザインに携わる学生の手を借り、新庄の顔面の彫刻を行なっていたが今日は私ひとりだ。早く像と二人きりになりたかった。 彫り出されたい像を目掛けて鑿(のみ)を入れる。その角度が、その面が正解なのか不正解なのか、像からのフィードバックを貰って作業を進める。 神は細部に宿る。 たとえ観客から決して見えない箇所であっても、そこを彫刻する意味は十分にある。何故ならば、最深部の谷まで彫刻された空間には、不十分なそれとは全く異なる深い影を落とす。 私は独り(或いは新庄像と二人)で新庄の耳の裏を綺麗に彫刻した。像は喜んだ。 パートナーの耳を舌で愛撫する時、あなたはその面を、その谷の深さを感じているか。三木富雄が愛した様に、耳の凹凸は美しい。私はそのひとつひとつを優しく、時に鋭く鑿で出してやる。 像と私との二人っきりのセッション。その時だけは宇宙に我々しか存在しない。これを「セックス」と喩えず何と喩えよう。 おい、明日も俺を愉しませてくれ。

  • 年寄り笑うなゆく道だ

    「子供叱るな 来た道だもの 年寄り笑うな ゆく道だもの」の後半をしばしば思う。同居している親父が同じく同居している祖母をよく疎ましく揶揄しているからだ。 簡単に言うと祖母の一挙手一投足が気に食わないらしい。 やれ電気がつけっぱなしだとか、やれテレビがつけっぱなしだとか、好き嫌いが多いだとか、寒がりだとか、運動しないだとか。文字通り一挙手一投足にケチをつけている。そんなに観察していて、疎ましいどころか一周回って好きじゃないかとさえ思う。 私からすれば「自分もゆく道だろう」と言う感想になる。まあ、父の祖母に関する愚痴を受け、私自身も父に対する愚痴をここに垂れ流しているのだから、全く他人のことは言えないのかも知れない。 親父は、祖父が生きていた頃は祖父の愚痴しか言わなかった。 「そんな詰まらないことに固執しないでもっと有意義なことを行えよ」と否定的にも見れるが、「よくもまあそんなことに怒るエネルギーがあるもんだ、俺にはそんな元気がない」とある種肯定的に見れなくもない。 目の上のたんこぶ的に老害が居るとイライラすることは理解できなくもないが、自分自身、老害の張本人である可能性を考慮しなくてはならない。まだ三十代の自分とて若者の中に入ればそうなり得える。 別に、年配者は若者に引け目を感じて生きろと言っている訳ではない。 一般論的に「老害は早く引退して優秀な若者に席を譲るべき」という意見に賛同はできるが、「さて、あなたはどうやら老害の様です、そろそろ引退しませんか」と言われたとしたら、私は素直に従う自信がない。 私がうつ病になった要因の1%くらいには「どうやって人に迷惑を掛けずに死んでいこうか」と考えたことが挙げられる(言葉にすると微妙に違う気もするんだけど)。コスパや地球のことを考えると今すぐ切腹したほうが良い。醜く歳を取っていくくらいならどこかで美しく死にたい、的な。 他人に迷惑を掛けないことや、美しいことは大事なことかも知れないが、時としてその考えは、ブレーキを握りながら自転車のペダルを漕ぐような、絶望的な苦しさがある。 若者に席を譲った老人はどうやってその自尊心を保つんだろう。若者が活躍する姿を見て微笑みながら、いつか来る死を待てるんだろうか。 先日、田原総一郎のモーニングルーティンを描いた動画を観た。彼の勤勉さや、(あの年齢における)若さには尊敬するが、昨今の討論における老害感を禁じ得ない。 でも、老害とわかっていながらか、そうでないと信じてか、生涯現役を貫く姿は寧ろ格好良かった。 若者からも学びながら、しかし、老害と言われようとも最後まで自分の信念で命を燃やすことはやめない、くらいが凡庸だが格好良い気もする。

    年寄り笑うなゆく道だ
  • もう大好きな彫刻ができないと思って涙が出た

    うつ病の軽い再発に際し、已む無く転職した農作業員は、幸いにも病気の改善に貢献した。 秋も深まり、収穫するものが無くなり、我々作業員は解散した。先輩方は冬場特に労働することなく「冬眠」するらしい。彼らは既に年金を受け取る世代だし、「冬眠」に備え夏に蓄えているのだろう。 さて私はと言えば、冬の仕事も友人が紹介してくれるとのことだったので、何も考えず晩秋を迎えた。しかし、当該の求人は既に定員に達しているらしかった。仕方がないので山にでもリゾートバイト行けば、英語スキルのメンテナンスでもできるだろうと求人を漁っていた。 同時期に、弊地方の国際的スノーフェスティバルの模型制作及び大、中、小雪像の実制作のオファーも頂いていた。模型制作から雪での実制作までひと月程の隙間ができてしまう為断りかけたが、雪像製作以外の春迄の期間にも、病気に配慮した頻度で別の仕事にアサインしてくれると言うので、お世話になることにした。 当雪像制作隊は、地域の美術系の学生の手を借りて模型や実制作を行う。かつては私もその一人だったが、十数年経った今、同じポジションで学生たちと協力しながら模型を作成することとなった。 しかし、どうも体調が悪かった。学生に嫌な思いをして欲しくないので気を遣い過ぎたか、久々の粘土との格闘で脳が疲れたか、吐き気と頭痛的な症状があった。 その夜何故か、YouTubeでロンバケのダイジェスト動画を観た。ピアノを諦めかけたキムタクを山口智子が励ましていた。 大好きだった彫刻ができなくなったらしい自分と重ねて泣いた。 発病以降、復職や転職など環境が変わるたびに体調に支障をきたしたが、時間と慣れが解決してきた。どうやら今回もそれらしく、次第に症状はなくなった。思えば、農作業員に転職した時のみ、一切新しい環境との摩擦が無かったので、本当に精神疾患の治療と相性が良いのだろう。因みに、農業経営者は経営の苦悩からかうつ病患者は少なくない様だ。 やはり粘土弄りは楽しい。納期は嫌いだ。厳密に言うと納期のない労働などこの世には無いだろうが。 作品に完成はない。永遠に弄っていられる。パーフェクトにはならない。粗を探せば簡単に見つかる。トレードオフの関係にある質とスピードのバランスをエナジードリンクで保った 雪像の完成はいつも納期が決めてくれる。私は泣く泣く理想像と掛け離れた現実像を提出するだけだ。その良し悪しはお客様が決める。感じるのは完成の喜びではなく、労働からの開放感と妥協を認めた自責のアンビバレンス。 他の作家も同様な思いが有るのかは知らないが、喜びは完成にはなく、素材との戯れそのものにこそある。 只、まだつくることができる身体であったことは素直に喜ぼう。

    もう大好きな彫刻ができないと思って涙が出た
  • 生老病死の作法を考える

    7月に前職を退職し11月まで農夫をやった。週3、4日働き残りは美術作品の制作(或いはアトリエ整備)に充てる予定であったが、その実、休日はほぼ心身を休めることに使われた。 直近の通院で主治医に休日を活動的に過ごせていない不満を漏らした所、「うつ病はバッテリー総量が著しく減っているので直ぐ燃料切れを起こす、過去の自分と比較し過ぎず、今の自分をベースに考えた方が良い」旨の助言を貰った。少し前に5、6年振りの東京旅行に出かけた。観光の時間より休息の時間が多く自らに失望したが、発病以前の自分と比較することがナンセンスなのかも知れない。 今季の農作業を終え実質ニート状態(ニートの上限は34歳と定義されているのでコドオジとでも言い換えた方が正確か)を数日経験し、やっと何かする気力、体力が湧いてきた。睡眠負債は返済に4日要すると聞いたが、疲労負債もきちんと返済しなければ活動できないのかも知れない。 うつ病のきっかけは単なる働き過ぎだったと思うが、そこから湧き出てきた負の感情は基本的に「老」の苦しみだ。勃起しない。疲れやすい。モテない。金無い。チンコも体も心も家計も元気になるには、筋トレ、趣味、労働などができる最低限の元気が必要になる。言い換えると、より元気になるにはエッセンシャルな元気が必要なのだ。 日に日に老いるし、このままセックスできず死んでいくんだろうし、「特にもがいたりせず死んだ方がSDGsだな」という身も蓋もない思いに至るので、煙に酔って寝る夜もある。 基礎的な元気を得る為にはひたすら休むしかない。他人との比較も無用だが、若き日の自分と比較することも精神衛生上よろしくない(「若さは素晴らしく老いは醜い」という考え自体は拭えないんだけど)。 若さや元気を諦めるべきか悩む。休んでは歩き、休んでは歩くしかないか。基礎体力がついたら老いに抗いたい気持ちもある。武田真治がうつ病発症後に、サックスを吹くために筋トレを始め、結果有言実行している姿は誠に見習いたい。 自分の体を乗りこなすにはまだ時間が掛かりそうだ。

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  • 半隠遁と表現者のジレンマに対する一つの解

    SNSを半分辞めてみた(「半分」としたのは、このブログの投稿は制限から除外したからだ)。 孤独を埋める為にソーシャルメディアに依存していたが、結局そこでも孤独を感じたからだと思う。子供時代は母に、以降は歳上の恋人達にそれを補完してもらっていたのかも知れない。 社会を形成している人間は所謂、群れで生きている種で、大袈裟かも知れないが孤独は死を意味する。働いてお金をもらって、食品を買えるのであれば十分であるかも知れないが、孤独に危機感を覚える様に設定された者が生き延びた結果、子孫である我々、特に日本人は孤独に敏感だと思う。だから、同調圧力に屈して苦しい思いをする反面、災害などの有事には不文律が守られるのだろう。 転職を繰り返し社会不適合で、一定年齢以降パートナーを作る能力や魅力も失い、病気で思うように自分自身もコントロールできない。 隣の芝生が青く見えるだけかも知れないが、みんなは、社会人としてもそこそこ活躍し、パートナーや子供を儲け、人生が充実している様に見える。運用を間違えるとソーシャルメディアは、自分を相対的に不幸にすることがわかってSNSを半分辞めてみたのだと思う。 自分一人で幸せでなければ、これまでの様に他者に依存して幸せなフリをしないといけない。私は経済的自立、精神的自立という当たり前のことができていないのだ。 SNSを離れてほんの数日だが心は落ち着いている。SNSの恐さはいくつかあり、先述したような「隣の芝生の羨望」、「自分の発信への批判」、「時間の浪費」などが思い当たる。 うつ病を発症してから体力も所謂メンタルも弱体化した。以前は他人からの批判をなんとか受け止めていたが、今は苦しい。老いるほど自分の考えに固執することは、理論からも実体験からも理解しているので、自分が年齢を重ねただけかも知れない。 正直自分がこれ以上成長や向上できると思わない。年齢的、あるいは病気から起因するものによりそんなエネルギーが無い。 変化、改善、成長、向上、進化は、過去或いは現在の自分を否定しないと為し得ない。大人になると本質的に、他者は自分を肯定してくれない。言い換えると、自分が自分自身を肯定しないと誰も肯定してくれない。異論は認める。 それなのに自分を否定して自分を変えることなど苦しくてできない。臆病とか子供とか言われても構わない。少なくとも私は、そうしないと自分を保てないと思っている。 これは、表現者が昔から葛藤してきた命題と似ている。 「表現者は何処まで鑑賞者の目を意識すべきか」「自分の表現を貫くべきか、ある程度売れるものを作るべきか」 これらの問いに対する私の答えは「どちらでもない」だ(しかし後で覆す)。真実はいつも凡庸だ。中庸と言い換えても良い。 自分を殺して表現することに何の意味もない。反面、その表現が全く伝わらなければそれはそれで無用だ。 理想的には、自分の表現を他人に伝わるように料理する。誠に凡庸な答えだ。 他人がに伝わるように、自身の表現にある種の客観性や批評性を持たせる訳だが、厳密に言うと、「自分が思う」客観性や批評性な訳で、本質的には誠に主観的なものである。 その意味に於いて、私は「表現者は鑑賞者の目を全く気にしなくて良い」し、「経済的リターンを全く無視して表現するべき」だと思う。 私は自分が自分である為に、他人に左右されない為に、ソーシャルメディアを半分降りてみたのだと思う。 繰り返すが、異論は認めるのである。

    半隠遁と表現者のジレンマに対する一つの解