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寿司屋の修行
有難いことにブログの感想やイイねを頂戴している。 この文体からか、エピソードからか、私の不器用さが感じられるそうだ。エピソードはそんな感じだが、文体は一生懸命かっこつけているのだ。が、どうしても本質が滲み出ているのか、読者の観察眼が優れているのか、そういった印象を与える様だ。 そう、淡々と、月日、年月が流れる様になって、私自身、忘れかけていたが、私は不器用なタイプの人間だ。いや、正確に言うと、「不器用なタイプと言われる」人間だ。完全に自覚している訳ではなく、そう言われるから、そうなんだろうと思っている。 「天然」と表現されることもあるが、ほぼ同義で使用されていると思って相違ないだろう。 自分の不器用エピソードを語ろうと思うが、的を外しているかも知れない。何せ、不器用なのだから。 思い出すだけで嫌になるが、何の仕事をしても向いていなかった。 一時、回転寿司で働いていたのだが、なかなか上手く行かなかった。メニューと、それに対応する皿も覚えられない。初日からおばちゃんに怒られながら仕事をした。私はメニュー表を持ち帰り、ネタの絵とそれに対応する皿の色を色鉛筆で塗り分けた。 そのおばちゃんは必要以上に怒る人だったが、周りの大人(自分も立派な大人だったが)はそれに気付いても、あまり助けてはくれなかった。 ホールでもできは酷かった。忙しい時にうっかりならわかるが、客が1人もいない時間帯にグラスを一度に複数割ったりして、店長を唖然とさせた。 キッチンもホールも大してできないのに、何故か兄さんたちに混じって、握りをやる様指示された。注文は口頭でも、紙でもやってくる。カンパチ、ブリ、ハマチの見分けもつかない私は、注文にミスがない様、丁寧に作業して、順調に注文を積滞させた。益々私は緊張し、最終的にホタテを炙るのに、プラスチックの皿ごと炙った。 店長は以後も機会を見て、握りをやる様に私に指示したが、丁重にお断りした。 ひとつ歳下の女の子のスタッフにも、仕事が出来ず相当嫌われた。今思えば、月のバイオリズムに機嫌が大きく左右されるタイプで、彼女の調子が悪い日にヘマをやると、殺されるのではないかと思った。この手の女子の地雷のど真ん中を踏むことにおいて、私の右に出る者は居ない。 仕事ができないくせに、無駄に教育大学卒のスペックを持つ私を揶揄してだろう、私は「センセイ」というあだ名で呼ばれた。 気持ちはわからないでもない。今の会社に居るひと回り近く歳下の男の子に対し、周りの社員は、きっと同種の評価をしている。お世辞にも仕事が出来るとは言えない、いかにもボンボンといった感じで、質問も的を射ない。お勉強はできそうで、いつも昼休み読書をしている。 そんな彼を、私は他人事とは思えない。私自身、認めるのが嫌だが、きっと私以上に、母親に過保護に育てられたに違いない。もし彼が私と同じ人種なら、時間は掛かるが、少しずつ周囲に認められるに違いない。一度、昼ご飯を一緒に食べ、その素直さに好感を持った。 回転寿司屋では滑稽にも、何かやらかせば、「センセイ!」と怒られた。怒られるのは嫌だったが、辞めるわけにはいかなかった。ワーキングホリデーで海外に行く予定だった私は、飲食業の実務的な経験と、向こうで使う履歴書に、「rotating sushi bar」の経歴があることを嘘なく書きたかった。 縁もゆかりもない海外で働くには、日本食レストランで働くのが手っ取り早かった。その為、日本の回転寿司での勤務経験は有利に働くと考えたのだ。 補足になるが、私は当時、まだアーティスト症候群の呪縛を免れていない。「芸大がダメなら海外だ」という素人が描いたサクセスストーリーの主人公を務める必要があった。 以上の理由より、幾ら向いていなかろうが、怒られようが、回転寿司屋を辞めるわけにはいかなかったのだ。 相変わらずドジでノロマだったが、いつしか仕事には慣れた。 半年を過ぎた頃、札幌雪まつりの模型制作、及び実制作に携わる予定だった為、退職を申し出た。 私を一番怒ったおばさんは、何故か私の退職を惜しんだ。 最後まで店に馴染めなかった私は、喜んでその店を去った。 今、もうその店はない。みんなどうしているだろう。
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利己と利他
他人の為に生きると幸せになれる。 これは、社会規範や倫理を民衆に守らせる為に謳われているのではなく、オキシトシンという脳内ホルモンの効果を根拠として謳われているらしい。 若い時はともすると利己的になりがちだ。自身の生命維持が最優先なのだから、パンが一つしかない時、救命の浮き輪が一つしかない時、「それを他者に譲らない権利」を認めて良いと思う。譲れるのはきっと相手が肉親の時に限られるかも知れない。中には自分の取り分をゼロにして、他人に譲るも者もいるかも知れない。そういう人は素晴らしい。死んでも天国か極楽浄土に行けるに違いない。自分は「他人に譲る」と自信を持って言えない。 自分も人の親に成れば、価値観のコペルニクス的転回が起こるのかも知れないが、正直、今は自分の為に生きている。 それではオキシトシンが出ないからか、その他の要因かわからないが、確かに虚しい時もある。 会社に行き、言われたことをやり、毎月一定額が支給される。支給額は生活を豊かにするには不十分だが、生命を維持するには十分だ。一時、貧しい国の子供の教育費を寄付していたことがあった。恐らく自分の幸せの為に、という不純な動機で。結局、家計を圧迫する月もあり辞めた。野良猫に餌をやるくらい偽善的なことをしてしまったかも知れない。その子も、その慈善団体もそんなことでは傷つかないのに、何となく後ろめたい気持ちになった。 ある時、恋人が欲しくてマッチングアプリを弄っていた。 一昔前の出会い系サイトと異なり、一定本気で出会いを探している者も少なくない。マッチングアプリで恋人を見つけたとか、結婚したとかいう知り合いもちらほら居る。アメリカではオンラインの出会いは全体の3分の1を占め、幸福度はその他の出会いより高いというから、一切バカにできない。オフラインから出会って結婚しても、文句を垂れながら結婚生活を続ける者も居れば、オンライン経由で知り合い、幸せそうなカップルも居る。勿論当人同士がハッピーであれば、私は、カップルの出会い方にとやかく言うつもりはない。 私は少し歳の離れた20代の女性とやり取りしていた。一度ランチをしようという話になり、待ち合わせをした。待ち合わせ場所に行くと、SNOWで加工されまくったプロフィール写真とは似ても似つかない女性に声を掛けられた。 思っていた顔と違ったので、私は一気に消化試合モードになった。とは言え、悪い子ではなかった。色々話を聞いたら、持病があるらしかった。私の母親も病気が見つかったばかりで、他人事にするのはやや困難だった。 その後も連絡を取り合ったが、高確率で彼女は体調が頗る悪そうだった。病気の治療費や、薬代でかなり家計は苦しそうだった。 彼女から、私にお金を貸して欲しいと依頼があった。演技なら大したものだが、彼女の様子から、体調が悪いのは間違いなかった。嘘でも真でも、困っているなら助けようと思い、金を貸した。当然返金は期待していない。 忘れた頃に、またお金を貸して貰えないかと依頼があった。気づけば私の家計もかなり圧迫していた。私は最後の手切れ金を振り込み、彼女のラインをブロックした。 一時、彼女の生活が楽になったならそれで良い。 普通はこれをどう思うのだろう。私思いの友人なら、「変な女だったら、すぐ縁切りなよ!」とアドバイスをしてくるだろうか。或いは、「自分の問題と他人の問題を分離できていない」と、アドラー心理学を以って諭されるだろうか。 どこの馬の骨かわからないままで終わったが、目の前の人が自分より飢えているのが明らかだったので、自分のパンを渡したし、自分の方が泳ぎが得意なのが明らかだったので、浮き輪を譲った。 でも彼女は次のパンを稼ぐ余力も無かった。私は、結果自分のパンが無くなるのが嫌で、以降のパンを彼女に与えなかった。彼女は最悪死んでいるかも知れないし、今も頑張って生きているかも知れない。 以上より、私は利己的な人間であるし、他者の利己的な言動を否定しない。
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サピエンスのオスとしての最適解を考える
※専門外の生物に触れています。訂正すべき箇所、誤解を与える様な表現がございましたら、ご指摘くださいませ。より良いエッセイになるのでしたら、是非伺いたいです。※ ※私が好き勝手乱読した知識から、好き勝手語っています。一つの価値観としてお楽しみください。※ 生物にはオスとメスの有性生殖を行うものが多数ある。 自分のコピーを作るだけにすれば低コストで済むが、種の保存の観点からは、多様性に欠け、環境如何では絶滅のリスクを高める。 両性生殖を行う種の保存の為には、最低一度は異性と結ばれなければならない。が、原理的に無数に種づけできるオスと、生涯の出産回数が限定的な(特に哺乳類の)メスの、子孫繁栄の最適解は、絶妙に異なる。よって、私は昨今の有名人の不倫騒動について、賛成意見も反対意見も持ち合わせていない。 一種のハツカネズミは、一度番いを形成すると、その異性にしか愛着を示さないらしい。我々からしてみると、パートナーと離婚、又は死別した場合、次に誰も愛せないのだから、そのメリットがよくわからない。調べればわかることだが、専門的な知見もなければ、それを載せるべき場所ではないので控える。最低限、そのハツカネズミの種の保存戦略として、それが何かしらの理由で有効だった、ということだけは、恐らく言って差し支えはないだろう。 該当のハツカネズミとは逆側の戦略を選んだものたちのは、一夫多妻型、更に逆サイドの極みに行くと、乱婚型となる。 一夫多妻、つまりボスザルが居て、周りはメスだらけのハーレムを形成する。ボスザルに成れなかったものは独り寂しく死んでいくか、然もなくば、ハーレムのメスをレイプして子孫を残す。若いオスにボスの座を奪われたボスザルは、役目を終えひっそりと亡くなる。ハーレムのメスや子供を食わせ、若いオスにいつ下克上されるかわからない精神状態は計り知れない。 乱婚(乱行)型の者たちは、多数の異性と交わる。メスは、遺伝的父親を特定こそできないが、その父親を含む、群のオスたちと子育てをする。つまり、誰の子かはわからないが、この中の誰かの子ではあるわけだから、この村みんなで育てようという戦略だ。なんとも理想郷に聞こえるが、間違いなく自分の遺伝子をもつ個体だけに投資をしたい現代社会人にはそぐわないシステムかも知れない。 恋が人間だけのものかわからない。「動物たちは本能に従い行動するが、人間には理性がある」と言いたいところだが、幼児の初恋も性欲に起因すると言うから、特段、他の動物と大差がない可能性もある。 極論、個体の生命維持だけを考えれば、子供を儲けることは負債でしかない。その理性を麻痺させてパートナーを作るという「過ち」を促進するのが「恋」なのだと、ある科学者は語る。 老化と共に、その「麻痺装置」も機能しにくくなるらしい。 私はこのまま理性を保ち、自分だけに投資を行い死んでいくかも知れない。或いは、理性的に「理性の麻痺機能の作動」を演じ、時折その「過ち」を嗜むのかも知れない。 でも本当は、「盲目」になるのが一番幸せな気がする。
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祖父と時計
祖父が今年、享年93歳で亡くなった。 国内でのコロナウイルスの感染者は居たが、大きく騒がれる一歩手前で、葬儀はごく一般的な形式で執り行われた。 親父の三人兄弟だが、叔父、叔母には子供はなく、私は初孫だった。妹がほぼ年子で産まれたので、少なくともそれまでは、祖父母、曽祖父母の寵愛を独占したに違いない。 地方で農家をしていた祖父は、週に一回、日没前まで農作業をしてから、両親と私の住む札幌のマンションまで車を走らせた。孫の私を愛でて、睡眠をとったのち、早朝車で畑に戻り、仕事をした。 私自身、子も、ましてや孫も居ないので実感を持つことは不可能だが、エピソードを聞く限り、目に入れても痛くない存在だったのだろう。3年前産まれた妹の息子に、寡黙な父が、見たこともないくらい鼻の下を伸ばしているのを見ると、自身の子供とはまた違う可愛さがあるのだろうと思う。 祖父は毎度、「とうまん」と呼ばれる白あんの饅頭を買ってきた。私は、舌まで「甘やかされ」、祖父に懐いた。 小学6年に上がる年、父は郊外に家を建てて、祖父母、両親、私、妹の6人での生活が始まった。 正確には、曽祖母、叔母を含めた8人の筈だった。80年超、住み慣れた土地を離れたく無かったのか、曽祖母は、我々の引越しの直前に息を引き取った。同じく同居する筈だった独身の叔母は、やはり「独りが気楽」と早々に、このやたらデカイ戸建を出た。曽祖母との思い出は殆どないが、居間の奥の部屋に通じる引き戸の閉めが甘いと、「寒い」と注意を受けた。 夫の両親との同居は何かと苦労が多いようだ。息子の視点からもよく見えた。もう物心はとうに付いていたので、祖父が如何に頑固かよくわかった。世代的な要因もあるだろうし、当時珍しかった一人っ子も起因していたかも知れない。 職業柄も、自分は社長で、他は従業員。控えめに言っても、話し合いのできない人だった。 父は兄弟の中でも、特に祖父と馬が合わず、家の中は賑やかで、子供ながらに色々嫌な思いもした。両親の面倒を見ようと、祖父母に同居を申し出た父は素晴らしかったが、ソリの合わない者と穏やかに過ごすスキルは無かった様だ。 農家で鍛えた健康な体と、読書家の脳を備えた祖父は最後までボケることはなかった。中学時代、腕立て伏せをしては祖父に腕相撲を挑んだが、終ぞ、その強靭な手首を台に押し付けることは出来なかった。 祖父は、80代になると益々、頑固で我儘になった。 世の中には老害という言葉がある。好意的に解釈すると、心身が衰えた者は、自分の弱った心身をいち早く「快」の状態にもって行く為に、怒りで周囲をコントロールするのかも知れない。フェアな手段で、周囲と交渉/合意を図る、社会性も身体的/精神的余裕も、もうないのかも知れない。 祖父はエネルギーこそあるので、よく祖母に対する怒号が飛んだ。当時、大学院進学を諦め、ふらふらしていた私は、家に居る時間も多く、よくそれを聞かされた。流石に限度を超えていると思った私は、自身の生涯の伴侶をもう少し大切にする様嗜める旨の手紙を書いて渡した。祖父は、祖母と並び、老眼鏡でクリクリになった目でそれを音読していた。その手紙は、祖父の心を打ったのか、或いは逆撫でしたのかわからない。只、以前より怒号が落ち着いた気がした。 祖父は、私が会社員をしてからは、仕事のことを質問し、それが安定してからは、「誰か良い人は居ないのか」という「余計なお世話」を焼いてくれた。それが愛情なのはわかるので、嫌々ながらも返事の様なものはした。当時付き合っていた彼女は東京におり、月に一度東京に行く為に、私のなけなしのリソースは割かれた。いつもの様に東京に行く前日、祖父は「早く連れて来い」と顔ではなく、背中をこちらに向けて言い放った。残念ながら、その人を実家に呼ぶことは無かった。 昨年、秋に妹と甥が、追って冬に義理の弟が、こちらへの移住を決めて、実家に帰ってきた。8人で住む筈だった家には、曽祖母も叔母も、私も居なくなっていたので、彼らは綺麗にハマった。 孫娘夫婦と曽孫を数ヶ月愛でたのち、祖父は安心したかの様に他界した。 祖父はその日、危篤状態になりかけるも持ち直した。そこにいた者たちに筆談で「遅」を書き、「もう遅いから、早く帰れ」と促した。その晩、容体は再び悪化し、そのまま逝った。 父から「自宅待機」を命じられていた私は、逝く直前に会えていない。 昨年夏に見舞いに行った際、祖父は私の時計を褒めた。その、祖父が私に大学入学祝いで贈ってくれた腕時計は、当時あまり似合わなかったが、スーツを着る様になった近年は重宝している。 祖父は、時計を贈る人らしかった。嫁に来た母に、金婚式を迎えた際祖母に。 時計は、「あなたの貴重な時間を私と共有してください」という意味で贈られるそうだが、昭和3年生まれの不器用な男が、そんな粋なメッセージを込めたとは思えない。 でも、私はこの時計を結構気に入っている。
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希望と絶望
大学院浪人1年目は、兎に角時間に追われていた。試験までに120%の準備をしたいというのはもちろんだが、卒業制作の実質的な時間切れは、時間にルーズだった私にはかなり有効な劇薬となった。 今や人より早く待ち合わせに着くのが常だが、もしかしたら、まだ薬が効き続けているのかも知れない。 浪人を許された私は、研究室の使用を継続させてもらえることになった。勿論、一定の授業料を支払ってだ。 今思えば無茶以外の何者でもないが、始発で大学に行き、終電で帰る生活が続いた。常にある焦燥感や、彫刻細部の造形の難しさから来るイライラで、全くの無煙、失礼、無縁だったタバコに手を出した。いつしか私の体重は47kg、体脂肪7%の、彫刻制作に取り憑かれたゾンビになっていた。 ゾンビのせいで、後輩たちはのびのび制作できなかったに違いない。ごめんね。 作品を納期に合わせて完成させることには慣れたが、焦燥感が無くなることは一切なかった。特に冬に入ってからは余裕がなかった。当時付き合っていた彼女との日課の電話を断った。 入試に持っていく作品自体は、当時の実力の全てを投じたので不満はなかった。 提出作品は、卒業制作に比べれば小柄だが、一人では持ち運べない。学内でトラックから下ろされた後は、手伝いの大学院生らしき人に手伝ってもらう。 二度目とはいえ、当然緊張している。 院生に運搬の補助を依頼する際、極度の緊張から、その台詞を噛み倒した。それほど滑稽だったのだろう。その院生は笑いを堪え切れず吹き出した。大学院入試という真面目なシーンで、これから試験を受ける、ある種もてなすべき相手のミスを笑うべきではない。それくらいの常識はある者に見えた。 それを凌駕する程滑稽だったのか、或いは、「笑ってはいけない」という状況が、笑いを増幅させるのだろうか。某お笑い番組のコンセプトの様に。 私は普通に腹が立った。少し遅れて、心の僅かな傷に気がついた。 入試の内容は、作品提出、デッサン、面接の3点だ。1年かけ前年の反省点を潰していった。デッサンでは前年同様、入学後制作したいもののイメージデッサンが求められた。この年も同じなのはわかっていたので、予め、小さなスケッチブックに書いていたデッサンを拡大して出力した。 残るは面接だけだった。 学部の教授がそうであった様に、大理石を扱う先生の研究室に入りたかった。提出作品はポリエステル樹脂で型取った人物像。大理石風の表面処理を施していた。 受験生1人ずつ面接をしていく為、待ち時間は異常に長かったが、遂に私が呼ばれた。 提出作品の解説と入学後の展望を説明した。 大理石「風」に作られた像を見て、師としたかった教授が一言、「これ大理石じゃだめなの?」 「…ですよね…。」と苦笑いをしながら返事をした。 「次!」の声と同時に、私の面接は秒で終わった。入試の結果は言うまでもない。 この年私は、合格以外に、3年付き合った彼女を失った。今思えば、入試の結果まで、別れを告げるのを待っていてくれたのは、最後の優しさだった。 提出作品に名付けたタイトルは「希望と絶望」だった。私に残されたのは後者だけだった。
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痘痕のヴィーナス
自分の才能を過大評価した私は、いや、母の甘やかしを享受していた私は、就職ではなく、大学院への進学を許可された。大学側は許可した訳ではないので、入試を突破する必要がある。同じ大学の院に進むのであれば、ほぼエスカレーター式に進学できたが、無謀にも天下の芸大を志した。 当時の私の作風は、兎に角ダイナミック。3メートル級の巨大像を、卒業制作として作ることに決めた。 我ながら良い作品ができたと思ってい「た」。 粘土で造られた像はそのままでは、作品として形を維持できない。その粘土を窯で焼くか、別の素材で置き換えるかの二択だ。一般的には石膏に置き換えられる。私も例に漏れず、その技法を選択した。 門外漢からすると、ブロンズ像の方が見慣れているかもしれないが、あれは公共事業で設置されているからその予算があるわけで、一作家、まして学生が賄える予算の範疇を超えることになる。 粘土を石膏に置き換える工程を総称し、「石膏取り」と呼ぶ。工程の詳細の説明は、本題とずれるので割愛するが、出来た像のネガを石膏で取り、そのネガを基に、ポジも石膏で「プリントする」のだ(フィルム写真を知らない世代の読者へ、伝われ!)。 そう、わたしの卒業制作は順調なはずだっ「た」。 石膏取りの段階に入ると、私の制作の時間配分に、大きな誤算があったことが明らかになって来た。通常の作品より高さが2倍近くある私の作品は、どの工程も2倍時間を奪われた。高さが倍なだけなので、3次元作品である故、もっと手数を奪われたかも知れない。 粘土の造形も、石膏取りも順調に遅れた。 最終的に、「ネガ型」を割り、中の「プリント」された像を取り出す。作者の意向にもよるが、大抵着色されて完成となる。 教授陣へ発表を行う前日には、「ネガ」を取り壊すだけになっていた。だが、「間に合うかも知れない」という淡い期待は直ぐに失せた。 「ネガ」も「ポジ」も石膏の場合特に、型同士が癒着しやすいため、「プリント」面に、分離の膜を石鹸で作る。その濃度か、厚みが足りなかったらしい。割り出し作業は難航し、「ヴィーナス」と名付けられる予定だったその像は、痘痕のような肌を晒し始めた。 デッドラインと残りの作業時間の計算が不能になった私は、もう助けも呼べなくなっていた。気づけば見かねた教授に指示されたらしい後輩たちが、割り出しを手伝っていた。 発表までに完成しなかった。 本当は大学院受験も、まして卒業も出来る資格は無い筈だった。結果から言うと、成績を付けるのは自分の研究室の教授であり、彼の情けにより卒業に至った。 明らかに未完の「痘痕のヴィーナス」の発表を教授陣、及び先輩、後輩、同級生に対して行うという「公開処刑」を終えた私は、 無事にその年の受験に失敗した。
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ゴッホ
教員である両親、特に父は、自分が世話になったからという恩義を抜きにしても、立派な教育者だった(恐らく今もそうであるが、数年前に定年退職していることと、既に良くも悪くも手の加えようが無い私の生き方に口を出されることもなくなったので過去形で表現しておく)。 私立の幼稚園に通わせたり、ピアノ、英会話、習字…etc. に私と妹を通わせた、ある種上っ面の教育ママであった母とは異なり(ごめん。感謝はしている。)、父は、もう少し本質的な原体験をさせてくれた。 その一つは、沢山の美術品に触れさせてくれたことだ。札幌の美術館は勿論、道内各所、母の実家、千葉に帰省した際は、関東の美術館に連れて行ってもらった。 のみならず、父は私に多数の画集を買い与えた。その甲斐あり、大学入試の美術史の筆記試験で覚えなくてはならない作家や作品たちは既知のものとなった。 日本人は、バブル期に美術館が買いまくったからなのか、その要素の一つが、浮世絵ルーツとしたジャポニスムだからなのか、印象派が好きらしい。 うちの父も例に漏れず、印象派のファンだった(と思う)。外資系の週刊誌が出していた、毎号一人のアーティストを特集した奴を定期的に買ってきた。父の趣味か、そのシリーズが売れそうな作家を選定したからか、いや、その両方の理由で、印象派をメインとするコレクションが出来上がった。 私はゴッホが好きになった。印象派の中ではかなり異質な存在だが、ご存知の通りファンも多く、今考えてもかなり「ベタ」だ。一時、大学で現代美術を覚えた私は、ゴッホ愛を捨てかけたが、1〜2周回って、今もかなり好きな部類だ。 何より、その不器用さが、何か自分と似ていて良いのだ。恋愛は上手くいかないし、仕事も上手くいかないし、友達づきあいも下手だし。色々諦めて社会に馴染もうと踠いていたが、何の仕事をしても上手くいかない、「俺に向いていることなんて無いんだ」と絶望していたあの頃も、ゴッホは私のそばに居た。何の仕事をしても上手く行かない自分は「ゴッホになるしかない」、「わたばゴッホになる」と思っていた。 気づけば私は何年も会社員をしている。特別仕事ができる訳でもないが、特別できない訳でもない。仕事ができる人のデスクは整頓されているというのは一定真理だが、乱雑な部屋の方が「クリエイティビティ」は高まるという研究がある。昔は汚かった自分の部屋も、今は綺麗にしている。オフィスのデスクも人一倍整頓されいる自信はある。男の癖に毎日お弁当も自作している。私の歪だった歯車は、社会に矯正され、綺麗に両隣の歯車と噛み合うようになった。 社会人として適応すればするほど、アーティストとしての資質が薄れている気がする。いや、気がするだけで特に失われてもいなし、元々大して無かったかも知れない。私はもう、きっと、耳を切り落とす必要も、銃で自殺未遂する必要もない。 ただ、あの頃大切にしていた物を見失ったりはしていないか、定期的に振り返る必要がある。 今日は久々にゴッホの筆致を眺めてから眠りに就こうと思う。
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大学受験と風邪
美術予備校に通い始めたのは、高三の春休みからだったと思う。 美術系の学科の大学、及び専門学校に合格するには、通常実技試験を経なければならない。一定人生を左右する大学受験において、美術系の学科も例外なくコンペティティブで、志す者は、美術部のみならず、美術の実技試験に特化した予備校に通うことになる。 室内にはいくつかモチーフが設置されており、受験生がイーゼルを立て、黙々とデッサンをする。バケツにロープが垂らされ、斜め両脇に、ヨーロッパ産の炭酸水が置かれていたりする。モチーフが複数あることにより、受験生が「空間を表現できるか」を試されている。同一モチーフを多数で描くため、一定どの角度から見ても「絵になる」様に配置する意図もあっただろう。 10歳から油彩をやっていた私は、デザイン系に進む気はさらさら無く、デザインの授業の時は、一人で、昼間、浪人クラスが描いたであろうモチーフのデッサンや水彩を描いた。他の現役生は素直にアクリル絵の具で色彩構成をしているのに、だ。そんな私の所にも、先生方は足を運んで指導してくださったのだから有難い。頑固な生徒だなあと思われていたかも知れない。 余談だが、若年者程頑固で、また老化とともに頑固になって行くものだと思っている。 夏期講習で、ブリキのバケツの上に、タイヤ交換に使用する十字レンチが置かれ、床面には色の異なる折り紙が設置されたものをデッサンで描いた。 大まかに、「金属らしさを描けるか」と「色相の違いを鉛筆で表現できるか」を試される課題であった。形を取るのに大きな苦労は無く、かなり早い段階で完成に近づいた。時間があるので多少肉眼で見るより高コントラストにしようと、Hやら2Hやらの硬い鉛筆を寝かせて、黒を強くしたい箇所にゴリゴリ擦り付けた。 制限時間が終わると、「公評」と呼ばれる、一点一点の評価が行われる。通常の予備校であれば、点数は採点者と回答者しか知り得ないが、この「公評」は、自信の無い者にとっては「公開処刑」となる。 並んでいるデッサンたちを見て思った。「あ、多分俺のが一番いいな」と。勿論、地方大学の美術科を目指す現役生しかいない集合だったので、「その中では」と言う話だ。案の定、先生に褒められた。ばかりか、「お前、これ本番で出せたら合格するわ」と言われた。 夏の時点でそんなこと言われる現役生がいるだろうか。私は図に乗った。他の現役生からの羨望の眼差しも、益々私を調子に乗らせた。そのせいかはわからない。しかし、それから秋にかけて私のデッサンの出来は降下し、絵に描いたようなスランプに陥った。只、スランプに陥った要因はこれに限らない。 丁度その頃、一般大学を目指す高校の同級生たちも、高校の授業のみでは足りないと予備校に通う者もちらほら現れた。私は、高校の授業が終わったら、自宅とは反対方向へ向かう電車に乗り予備校に通った。 ある日、本来帰宅するなら私も居たであろう側のホームにクラスの女子が居た。向こうはこちらに満面の笑みで手を振った。勿論、お返しに手を振り返すわけだが、問題が起こった。 その一瞬で恋に落ちた。 今となってはなんて初な話かとは思うが、当時の私には重症だった。勉強の際も、デッサンを描いていても、彼女が、正確には私が作り出した彼女の幻想が、私を邪魔してくる訳である。 秋には高文連(高体連の文化部版)の都道府県大会がある。所謂野球のそれとは異なり、都道府県大会で選ばれた者は、翌年の全国大会に出場することになる。3年次、私の作品は、地方予選を勝ち抜き、都道府県大会での展示が決まった。大会が開かれたエリアを顧問と後輩と共に散策したり、参加者皆んなで周辺をスケッチしたりなど、それなりに楽しめた。 ただ一つ心に決めたことがあった。ここで描いたスケッチを彼女にプレゼントして告白をしようと。 大会から帰宅したその日だったと思う。当時携帯電話を持っていなかった私は、彼女の自宅に電話を掛けた。姉か妹らしき人が出たので、本人に代わってもらい、近くの公園に彼女を呼び出した。 私は大会での土産話をした後、そのスケッチを手渡した。彼女は少し戸惑ったようだったが、「ありがとう」と言ってくれた。また少し話したのち、私は意を決して、「好きです。付き合ってください。」と、過去に何万人、いや、きっと皆が一度は言ったことがあるかもしれない、使い過ぎて擦り切れまくったテンプレートを言い放った。 気まずい沈黙の後、「ごめん。好きな人が居るんだ。でも貴方はすごく良い人だと思う。」という、テンプレートが、嘘のないトーンで聞こえてきた。 私は彼女を家まで送り、駅に向かった。随分丁寧な演出家が居る様で、傘の無い私にの下に雨を降らせた。 雨に濡れた私は、翌日風邪を引いた。「これで良いんだ。これで大学受験に集中できる。」
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性の原体験
※下ネタ注意※ 性の目覚めを感じたのは、きっと初めて親父のエロ本を見た時だ。小四くらいだったと思う。正確に言うと週刊誌のヌードグラビア「程度」のものだ。 そのスタイルの良い女性は、片方の腕で両乳房を覆い、もう片方の手で下半身を隠している。身体には龍の刺青らしきものが施されていた。補足の文章を読むと、絵師が6時間程掛けて描いたものらしい。 9歳の私は、見てはいけない、父親の「秘物」を見つけてしまったことを自覚した。もちろん同級生の女の子を好きになったこともあるし、「秘物」を発見してしまった時も、好きな子はいた筈だ。 しかし、同級生の女の子が好きだと言う感情とは、全く異質の感情を、その写真の女性に対して抱いていた。うつ伏せになりながら「読書」をしていた私は、絨毯と自重に挟まれた身体の一部に、今まで感じたことがない、「未発散な何か」を感じた。 それから、親の目を盗んで、父親の「秘物」を盗み見るのが私の習慣となった。
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読書感想文
文章を書くのが苦手だった。特に読書感想文が苦手だった。 読書感想文と言うのは皮肉なものだ。 自分が読んだ本に刺激を受け、それに対する考察をパブリッシュしたくて筆を取るなら「読書感想文」と呼んでいいものだが、夏休みの課題として出され、「書物の感想を書く」のではなく、「感想文を書く為に、したくも無い読書をさせらる」のだから逆転現象も甚だしい。 確か小学校2年生くらいだった。その日担任が有休をとったのか、毎時間違う先生が自習監督にきた。 冒頭15分くらいだっただろうか、国語の時間に来た自習監督の先生は、絵本(だったと思う)を我々に読み聞かせ、作文用紙を配り、残りの時間は執筆に充てられた。 兎に角筆が走らない、いや一歩も進まない。感想など無い。当然、今となっては内容は覚えていない。きっとハッピーエンドだったかも知れない。「最後主人公はハッピーになって良かったと思います」と何の考察にもならないアウトプットをしても何にもならないことに、本能的に気が付いていた様な気もする。 時計の針が進むにつれ、焦りは増大し、私のほぼ初めての読書感想文は、絵本のハッピーエンドとは真逆の「絶望」を迎えんとしていた。 残酷にもチャイムは鳴り、自習監督の先生の指示に従い、私を含む一番後ろの座席の児童たちは、自分の列の作品たちを回収して、提出して行く。 幾分お勉強ができて自尊心の高かった私は、ポロポロと涙を流しながら、自分の列の回収を終え、先生に提出した。 私はその本の感想を一文字も書くことができなかったが、読書感想文に対する「感想」を手に入れた。30年の時を経て、あの時の悔し涙をここに回収する。








