∬ Takuma Tsuchidfa ∬

  • ゴッホ

    教員である両親、特に父は、自分が世話になったからという恩義を抜きにしても、立派な教育者だった(恐らく今もそうであるが、数年前に定年退職していることと、既に良くも悪くも手の加えようが無い私の生き方に口を出されることもなくなったので過去形で表現しておく)。 私立の幼稚園に通わせたり、ピアノ、英会話、習字…etc. に私と妹を通わせた、ある種上っ面の教育ママであった母とは異なり(ごめん。感謝はしている。)、父は、もう少し本質的な原体験をさせてくれた。 その一つは、沢山の美術品に触れさせてくれたことだ。札幌の美術館は勿論、道内各所、母の実家、千葉に帰省した際は、関東の美術館に連れて行ってもらった。 のみならず、父は私に多数の画集を買い与えた。その甲斐あり、大学入試の美術史の筆記試験で覚えなくてはならない作家や作品たちは既知のものとなった。 日本人は、バブル期に美術館が買いまくったからなのか、その要素の一つが、浮世絵ルーツとしたジャポニスムだからなのか、印象派が好きらしい。 うちの父も例に漏れず、印象派のファンだった(と思う)。外資系の週刊誌が出していた、毎号一人のアーティストを特集した奴を定期的に買ってきた。父の趣味か、そのシリーズが売れそうな作家を選定したからか、いや、その両方の理由で、印象派をメインとするコレクションが出来上がった。 私はゴッホが好きになった。印象派の中ではかなり異質な存在だが、ご存知の通りファンも多く、今考えてもかなり「ベタ」だ。一時、大学で現代美術を覚えた私は、ゴッホ愛を捨てかけたが、1〜2周回って、今もかなり好きな部類だ。 何より、その不器用さが、何か自分と似ていて良いのだ。恋愛は上手くいかないし、仕事も上手くいかないし、友達づきあいも下手だし。色々諦めて社会に馴染もうと踠いていたが、何の仕事をしても上手くいかない、「俺に向いていることなんて無いんだ」と絶望していたあの頃も、ゴッホは私のそばに居た。何の仕事をしても上手く行かない自分は「ゴッホになるしかない」、「わたばゴッホになる」と思っていた。 気づけば私は何年も会社員をしている。特別仕事ができる訳でもないが、特別できない訳でもない。仕事ができる人のデスクは整頓されているというのは一定真理だが、乱雑な部屋の方が「クリエイティビティ」は高まるという研究がある。昔は汚かった自分の部屋も、今は綺麗にしている。オフィスのデスクも人一倍整頓されいる自信はある。男の癖に毎日お弁当も自作している。私の歪だった歯車は、社会に矯正され、綺麗に両隣の歯車と噛み合うようになった。 社会人として適応すればするほど、アーティストとしての資質が薄れている気がする。いや、気がするだけで特に失われてもいなし、元々大して無かったかも知れない。私はもう、きっと、耳を切り落とす必要も、銃で自殺未遂する必要もない。 ただ、あの頃大切にしていた物を見失ったりはしていないか、定期的に振り返る必要がある。 今日は久々にゴッホの筆致を眺めてから眠りに就こうと思う。

    ゴッホ
  • 大学受験と風邪

    美術予備校に通い始めたのは、高三の春休みからだったと思う。 美術系の学科の大学、及び専門学校に合格するには、通常実技試験を経なければならない。一定人生を左右する大学受験において、美術系の学科も例外なくコンペティティブで、志す者は、美術部のみならず、美術の実技試験に特化した予備校に通うことになる。 室内にはいくつかモチーフが設置されており、受験生がイーゼルを立て、黙々とデッサンをする。バケツにロープが垂らされ、斜め両脇に、ヨーロッパ産の炭酸水が置かれていたりする。モチーフが複数あることにより、受験生が「空間を表現できるか」を試されている。同一モチーフを多数で描くため、一定どの角度から見ても「絵になる」様に配置する意図もあっただろう。 10歳から油彩をやっていた私は、デザイン系に進む気はさらさら無く、デザインの授業の時は、一人で、昼間、浪人クラスが描いたであろうモチーフのデッサンや水彩を描いた。他の現役生は素直にアクリル絵の具で色彩構成をしているのに、だ。そんな私の所にも、先生方は足を運んで指導してくださったのだから有難い。頑固な生徒だなあと思われていたかも知れない。 余談だが、若年者程頑固で、また老化とともに頑固になって行くものだと思っている。 夏期講習で、ブリキのバケツの上に、タイヤ交換に使用する十字レンチが置かれ、床面には色の異なる折り紙が設置されたものをデッサンで描いた。 大まかに、「金属らしさを描けるか」と「色相の違いを鉛筆で表現できるか」を試される課題であった。形を取るのに大きな苦労は無く、かなり早い段階で完成に近づいた。時間があるので多少肉眼で見るより高コントラストにしようと、Hやら2Hやらの硬い鉛筆を寝かせて、黒を強くしたい箇所にゴリゴリ擦り付けた。 制限時間が終わると、「公評」と呼ばれる、一点一点の評価が行われる。通常の予備校であれば、点数は採点者と回答者しか知り得ないが、この「公評」は、自信の無い者にとっては「公開処刑」となる。 並んでいるデッサンたちを見て思った。「あ、多分俺のが一番いいな」と。勿論、地方大学の美術科を目指す現役生しかいない集合だったので、「その中では」と言う話だ。案の定、先生に褒められた。ばかりか、「お前、これ本番で出せたら合格するわ」と言われた。 夏の時点でそんなこと言われる現役生がいるだろうか。私は図に乗った。他の現役生からの羨望の眼差しも、益々私を調子に乗らせた。そのせいかはわからない。しかし、それから秋にかけて私のデッサンの出来は降下し、絵に描いたようなスランプに陥った。只、スランプに陥った要因はこれに限らない。 丁度その頃、一般大学を目指す高校の同級生たちも、高校の授業のみでは足りないと予備校に通う者もちらほら現れた。私は、高校の授業が終わったら、自宅とは反対方向へ向かう電車に乗り予備校に通った。 ある日、本来帰宅するなら私も居たであろう側のホームにクラスの女子が居た。向こうはこちらに満面の笑みで手を振った。勿論、お返しに手を振り返すわけだが、問題が起こった。 その一瞬で恋に落ちた。 今となってはなんて初な話かとは思うが、当時の私には重症だった。勉強の際も、デッサンを描いていても、彼女が、正確には私が作り出した彼女の幻想が、私を邪魔してくる訳である。 秋には高文連(高体連の文化部版)の都道府県大会がある。所謂野球のそれとは異なり、都道府県大会で選ばれた者は、翌年の全国大会に出場することになる。3年次、私の作品は、地方予選を勝ち抜き、都道府県大会での展示が決まった。大会が開かれたエリアを顧問と後輩と共に散策したり、参加者皆んなで周辺をスケッチしたりなど、それなりに楽しめた。 ただ一つ心に決めたことがあった。ここで描いたスケッチを彼女にプレゼントして告白をしようと。 大会から帰宅したその日だったと思う。当時携帯電話を持っていなかった私は、彼女の自宅に電話を掛けた。姉か妹らしき人が出たので、本人に代わってもらい、近くの公園に彼女を呼び出した。 私は大会での土産話をした後、そのスケッチを手渡した。彼女は少し戸惑ったようだったが、「ありがとう」と言ってくれた。また少し話したのち、私は意を決して、「好きです。付き合ってください。」と、過去に何万人、いや、きっと皆が一度は言ったことがあるかもしれない、使い過ぎて擦り切れまくったテンプレートを言い放った。 気まずい沈黙の後、「ごめん。好きな人が居るんだ。でも貴方はすごく良い人だと思う。」という、テンプレートが、嘘のないトーンで聞こえてきた。 私は彼女を家まで送り、駅に向かった。随分丁寧な演出家が居る様で、傘の無い私にの下に雨を降らせた。 雨に濡れた私は、翌日風邪を引いた。「これで良いんだ。これで大学受験に集中できる。」

    大学受験と風邪
  • 性の原体験

    ※下ネタ注意※ 性の目覚めを感じたのは、きっと初めて親父のエロ本を見た時だ。小四くらいだったと思う。正確に言うと週刊誌のヌードグラビア「程度」のものだ。 そのスタイルの良い女性は、片方の腕で両乳房を覆い、もう片方の手で下半身を隠している。身体には龍の刺青らしきものが施されていた。補足の文章を読むと、絵師が6時間程掛けて描いたものらしい。 9歳の私は、見てはいけない、父親の「秘物」を見つけてしまったことを自覚した。もちろん同級生の女の子を好きになったこともあるし、「秘物」を発見してしまった時も、好きな子はいた筈だ。 しかし、同級生の女の子が好きだと言う感情とは、全く異質の感情を、その写真の女性に対して抱いていた。うつ伏せになりながら「読書」をしていた私は、絨毯と自重に挟まれた身体の一部に、今まで感じたことがない、「未発散な何か」を感じた。 それから、親の目を盗んで、父親の「秘物」を盗み見るのが私の習慣となった。

    性の原体験
  • 読書感想文

    文章を書くのが苦手だった。特に読書感想文が苦手だった。 読書感想文と言うのは皮肉なものだ。 自分が読んだ本に刺激を受け、それに対する考察をパブリッシュしたくて筆を取るなら「読書感想文」と呼んでいいものだが、夏休みの課題として出され、「書物の感想を書く」のではなく、「感想文を書く為に、したくも無い読書をさせらる」のだから逆転現象も甚だしい。 確か小学校2年生くらいだった。その日担任が有休をとったのか、毎時間違う先生が自習監督にきた。 冒頭15分くらいだっただろうか、国語の時間に来た自習監督の先生は、絵本(だったと思う)を我々に読み聞かせ、作文用紙を配り、残りの時間は執筆に充てられた。 兎に角筆が走らない、いや一歩も進まない。感想など無い。当然、今となっては内容は覚えていない。きっとハッピーエンドだったかも知れない。「最後主人公はハッピーになって良かったと思います」と何の考察にもならないアウトプットをしても何にもならないことに、本能的に気が付いていた様な気もする。 時計の針が進むにつれ、焦りは増大し、私のほぼ初めての読書感想文は、絵本のハッピーエンドとは真逆の「絶望」を迎えんとしていた。 残酷にもチャイムは鳴り、自習監督の先生の指示に従い、私を含む一番後ろの座席の児童たちは、自分の列の作品たちを回収して、提出して行く。 幾分お勉強ができて自尊心の高かった私は、ポロポロと涙を流しながら、自分の列の回収を終え、先生に提出した。 私はその本の感想を一文字も書くことができなかったが、読書感想文に対する「感想」を手に入れた。30年の時を経て、あの時の悔し涙をここに回収する。

    読書感想文
  • 万能感

    私の状態を端的に表すと、才能もないのにアートを志し、30歳手前にしてビビって、社会人になるけど何もスキルがなくて鳴かず飛ばずで底辺サラリーマンしている35歳になった、といった所だろう。 勿論適性がない訳ではない。一般人レベルではかなりデッサン力のある方だし、男性としては、かなり色彩に関しセンシティブだと思う。 私が憧れた村上隆の活躍する、コンテンポラリーアートワールドで飯が食えるに足る才能があったか。現状を見れば、太陽を肉眼で見るより明らかな訳で。 若い時というのは、何かこう、「根拠のない自信」と言おうか、「万能感」と言うべきか、若さ故、無知故「自分の夢は叶うんだ」という感覚がある。少なくとも私にはあった。意外にロマンチストな男子にはあり、意外にリアリストな女子には備わっていない(あるいは男子より早期に放棄される)のかも知れない。 これは、周囲のお陰で、ある程度順調に、至極一般的な成功体験を積みながら成長できたが為に、育まれた「万能感」かも知れない。或いは、「世間一般的には、絵に描いたような凡人であることに気が付けるに足る冷静さ」の無い、無邪気な馬鹿さが育んだ「万能感」かも知れない。 大学2年の夏、課題の御影石を彫っていた。石の名前を言われてもピンと来ないかも知れないが、現代の墓石は十中八九、この御影石だ。兎に角硬い。教授は非常に職人肌な人で、我々に電気工具の使用を認めなかった。粘土で作った模型を基に、手作業で形を出さなくてはならない。朝9時から作業開始して、日が暮れるまで、鑿やその他の「手作業」道具で、チンチン音を立てる。一日の終わりに、完成した面が、たった数平方センチだけ現れる。終わりが見えない。一般的な感覚では「こんなことやって何になるんだ」で終わるだろうが、「万能感」を備えた私は盛大に勘違いを犯した。 「俺はこれを一生やるんだ」 兎に角、勘違いを起こした私は、芸大の大学院の受験に失敗し、コンテンポラリーアートを原文で学ぶには些か不十分な英語スキルを身につけ、無事に会社員として社会の歯車になっている。

    万能感
  • 彫刻

    現役で、デッサンにて9割のスコアを叩いて、大学に入学した私は浮かれていた。1年次、各学科をひと通り受講させられ、後期、2年次以降の専攻、つまり配属の研究室が決定される。通常、芸大/美大では、入試の時点で「科」を決めて受験する訳だが、飽く迄、教育学部の美術コースであるウチはそうだった。 皆、「俺は/私は油彩をやるんだ」と意気込んで入学する訳だが、1年次の成績や、希望の研究室の先生に気に入られているか否かによっては、希望は叶わない。確か、希望を紙に書いて提出ののち、教授たちによる面接が行われる。 教授たちの腹はきっと決まっていて、定員から溢れた者は、「こっちの研究室の方がいいんじゃないか」という、夢を砕く「口説き」を受けることになる。泣く者もいたかと思う。今思えば教授陣も心が痛んだかもしれないし、例年のことで淡々とこなしていたかも知れない。 10歳から油絵を描いていた私は、「今更学ぶことはない。未知の彫刻をやる。」として彫刻を選んだ。

    彫刻
  • 自分で言うのも何だが、母親にとって私は、本当に可愛い息子だったに違いない。子供が可愛いのはどの親も同じだし、その愛情を簡単に比較などできないし、その当事者として、体験/比較することはできないので、飽く迄私の主観なのだが、「平均より甘やかされた」ことは、恐らく間違いないと思う。 3月22日に生まれた私は、他の同級生に比べて明らかに小さかった。特に、小学生までは、女子の成長は著しく、幼稚園児の時、一番背の高い女子は「お姉さん」と言うより寧ろ「大人」にさえ見えた。 ある日、母は、いつも通り私を幼稚園バスに乗せるべく、玄関での準備を急いでいた。少し起床が遅かったか、私の準備がもたついていたのか、出発の時刻を遅らす私に母は苛立っていた。堪忍袋の尾が切れた母は私に「早くしなさい」と言い放ち、私を押した。学年で一番小さい私の身体は、母の予想を超えて大きく飛ばされた。覚えていないが、きっと泣いたかもしれない。 その日私は、最初で最後のお漏らしをして帰宅した。 母は「この子を急かしてはいけない」と思ったらしい。この件は、母親を平均より少しだけ過保護にしたと思う。それは少なからず私の精神的成長を妨げもしたが、一定、正常な愛着も形成した。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%9D%80%E7%90%86%E8%AB%96

    母
  • 如何にして理想とのギャップを埋めるか

    私のスペックから紹介しよう。 35歳。生まれも育ちも北海道。底辺サラリーマン。 上記の通り、根本、自分の収入には満足していない。お金が腐る程欲しいかといえばそうでもない。只、何も考えず消費(他人から見れば浪費も含む)をしていると、給料日前には渇々なのである。 勿論、昇進/昇給を狙えば良いのだが、一朝一夕にはなんともし難い。お前の努力不足だと言われればそれまでだが、恐らく以下の理由にて、そこまで昇進を望んでいない。飽く迄、代わりのたくさん居るポジションに留まっていたい。責任を負いたくない。労働時間を増やしたくない。 それでいて、もっと金が欲しいと言うのだから我儘なものだ。 そこで、副業を検討するわけである。転売は以前赤字に終わったし、HTML/CSSの学習は挫折したし、クラウドワークスで何か探すも単価は安いし。客観的に見れば、只、現状の不満は言うけど、その打破の為の努力についても言い訳を並べ、「しない理由」「不満ではあるが、今の自分が出来上がっているのは仕方ないことなんだ」を語っているだけである。 こんな文章を誰に読ますつもりもない。飽く迄、自分を客観視し、頭を整理し、何か解決策を見出さんとし、これを書き連ねている。 これまた言い訳チックなのだが、今流行りの稼げる副業が何か自分に合っている気がしない。 万人に読まれ親しまれる文章も書きたくない。飽く迄、嘘のない、等身大の自分を描き出し、その蓄積が何ものかになれば幸い。 そう、何か即金になる何かを創作、提供することが自分に合っているとは思えない。何か、一見不要、役に立たない、ゴミとも思えるものの、蓄積/堆積がいつしか価値を帯びるような、そんなものを作りたい。 なんともアブストラクトな話ではあるが、そう思うのだ。一見無意味なものの蓄積、それが、私の理想とギャップを埋めるものである。そんな気がする。 間違いであれば、最期、死の瞬間、何も遺せなかったことを受け容れ、「何もできなかったけど、凡人だから仕方ないよ」と自分の亡骸に語りかけるとしよう。